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キツツキ(啄木鳥)

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キツツキは文字通り、木をつついて木の中の虫を食する鳥で、漢字では「啄木鳥」、
木を啄ばむ鳥と書きます。
英語では「woodpecker」でやはり木をつつく、啄ばむといった意味です。
でも日本でのキツツキ名は代表的な「アカゲラ」、「アオゲラ」、「コゲラ」や、北海道に生息するクマゲラ、沖縄のノグチゲラと、北から南まですべてゲラが付いて、キツツキが付くものはいません。何で? 
キツツキは昔「ケラツツキ」と呼ばれていたそうです。
「ケラ」は虫のことで、つまり虫ツツキということになります。
だから昔は、アカケラツツキやアオケラツツキと呼ばれていたのが短くなって、アカゲラ、アオゲラとなったということのようです。

日本の鳥は、その名称の由来が解りにくいものが大変多いのです。たとえば「ブッポウソウ」という鳥がいます。鳴き声が「仏法僧」と聞こえるので、大変ありがたい鳥とされたのですが、実は全く違う「コノハズク」という、日本で一番小さいフクロウの鳴き声だったのです。ブッポウソウは「ケエー ケエー」と鳴くのです。
キツツキは木の中の虫をつつくという大変解りやすい行動から、見事に「ゲラ」に統一されていて、例外がないようです。

上左画像がアカゲラ、右がアオゲラです。なんか逆のような気もしますが、アカゲラは腹が赤く、アオゲラは背中が青い(黄緑)ことから名付けられたのでしょう。
下画像はコゲラです。スズメをちょっと大きくした位の小さなキツツキです。
木をつつく音も可愛らしく、また啼き声は「ギー」と啼きます。一番お気に入りのキツツキです。
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鮭と鱒、鷹と鷲の違いなど

渓流に住む小さな川魚ヤマメと、海を回遊する大きなサクラマスは全く同じ魚なのです。
卵から孵ったヤマメの稚魚は、餌を巡って稚魚同士で熾烈な生存競争を繰り広げた結果、敗者は川を下ります。そして海を回遊して大きなサクラマスになって、生まれた川に戻ってきます。そこでオスはメスを奪い合い、勝ってようやく子孫を残すことが出来ます。
最初の敗者が最後は勝者になったのもつかの間、サクラマスはそこで死んでしまいます。
一方、川に残ったヤマメは産卵しても生き残り、翌年も産卵します。
しかもオスのヤマメは、サクラマスの産卵中に忍び込んで、なんとサクラマスの卵に自分の精子をかけ、子孫を残すなんてことを、やってのけるのです。一体どちらの生き方が良かったのかなんて?考えちゃいます。驚嘆のヤマメとサクラマス物語です。

ところで、ここでマスとサケの違いはなんだろうと疑問がわいたことありませんか?
英訳すると、サケがSalmon(サーモン)マスがTrout(トラウト)とされますが、一般的には、サーモンは海水に棲み、トラウトは淡水に棲むと分けられるようです。ただトラウトはより広く、淡水魚全体を指すこともあるようです。
日本では海水と淡水で分けるか、あるいは小さいのはマスで、大きいのはサケといった分け方もあり、ごちゃごちゃになっています。
最近ではトラウトサ-モンなんてのもあるようですが、これは商標です。

正しくは?サケというと、サケ目サケ科サケ属に含まれる魚を指します。
マスはサケ目サケ科の魚で、属にイワナ属、コクチマス属、イトウ属など沢山あります。
つまり、マスはサケと属が違うだけで、同じサケ科の魚で、広義のサケということです。
ヤマメは、サケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス種(もしくはヤマメ種)と、たいそうな肩書きになります。イワナもサケかあ...
何でこんなになっているのかというと、「サケ・マスは海水と淡水の両方で棲息できる」ということが大きな原因なのです。海や川の色々な水域で、色々な生き方が出来るので、その形や生態に応じて、名前も色々付けられたというわけです。

ついでに区別がよく解らない次のようなものも...
『鷲と鷹の違い』 英語では鷲はEagleで鷹はHawk。
「タカ目タカ科」に属する鳥のうち、比較的大きいものをワシ(Eagle)、小さめのものをタカ(Hawk)と呼び分けていますが、これも明確な区別ではありません。
なので例外があって、例えば「クマタカ」は大型の種で、大きさからはワシ類といえるし、「カンムリワシ」は小さいので、タカ類といえます。また余り好印象をもたれない「ハゲタカ」は「ハゲワシ」が正式な名前で、大きくて、死肉を食料とする鳥です。

一般に猛禽類と呼ばれる鳥は鷲・鷹の「タカ目タカ科」に加えて、「タカ目フクロウ科」のフクロウ、「タカ目ハヤブサ科」のハヤブサなど多くの種類があります。
北・南米に生息する「コンドル」はハゲワシに大変似ていますが、「タカ目コンドル科」の鳥です。ハゲワシと同様に頭部に毛が無いのは、大型動物の死体に頭を突っ込んで肉を獲るときに毛が邪魔になり、また血の付着などを防ぐためです。

『フクロウとミミズクの違い』英語ではすべてOwl で、ミミズクに当る言葉はありません。
「タカ目フクロウ科」のフクロウは、日本ではフクロウとミミズクの2種に分けられています。フクロウ科のうち、羽角(うかく)がある種の総称を、ミミズクと呼びます。
羽角は耳に見えますが、耳ではない羽飾りです。
ミミズク種は「コノハズク」のように、名前が「~ズク」で終わります。
ただし、例外もあるので厳密な区別ではありません。「アオバズク」には羽角はないのに、ズクと呼ばれ、「シマフクロウ」は羽角があるのに、ズクと呼ばれません。

夜の森のハンター、フクロウまたはミミズクは、ハイテクの装備を誇ります。
まず夜目が利き、人の何十倍も光に敏感なのです。
そしてその目も役立たない真っ暗闇では、獲物の立てる微かな音を感知して狩をします。
右耳が左耳より高い位置にあって、左右だけでなく上下方向の位置関係も把握できます。
そして音源から届く僅かな時間差と強弱差を感知すると、それぞれを2つの神経経路に分けて信号処理し、最後に合成して、獲物の位置を正確に感知するのです。
もうひとつのハイテクは羽にあります。その形状と羽の表面の細かい羽毛が、飛行の羽切音を消して、音もなく飛行します。
こうして暗視スコープと、ソナー(音波探知機)と、ステルス(隠密)性能を持って、獲物を襲うのです。

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資本主義の精神2

資本主義とは単純にいえば前回見た如く「工場や労働力などに投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて、あたかも資本が自律的に増殖するかのような経済システム」です。もう少し細かい定義をすると、例えば次のようになります。
「資本主義は、生産手段の私的所有および経済的な利潤追求行為を基礎とした経済体系である。資本主義を特徴づける中心的概念には、私的所有、資本蓄積、賃金労働、自発的交換、価格体系、競争市場などがある。
資本主義の市場経済では、投資の意思決定は金融市場や資本市場の中で所有者によって判断され、生産物の価格や配分は主に市場での競争によって決定される。」(Wikipedia)

しかし、これらの要素をすべて持ち、そして完全に機能する資本主義は、いわば理想形で、資本主義という言葉は同じでも、その中身は時間と場所によって大きく異なっています。
その名称も国家資本主義、独占資本主義、金融資本主義、ステークホルダー資本主義あるいは海賊資本主義や強欲資本主義などの蔑称を含めて多種多様で、これらを詳細な定義での資本主義の名で括れるのかは大いに疑問です。
投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて利潤や剰余価値を生み蓄積されていくという、資本主義の最も大きな特徴を端的に表すほうが良いようです。
資本主義や民主主義などの重要な概念ほど、分析的に厳密な定義にはそぐわないのです。

前回は資本主義の成立に果たしたカルバン主義というキリスト教プロテスタントの役割と、そして資本主義の進展とともに、カルバン主義の禁欲的、倫理的価値を失って、資本の増殖と蓄積が自己目的化していった経緯についてでした。
しかし一気に、そこに突き進んだというわけではありません。
カルバン主義の宗教的色彩はなくなっても、英米資本主義国の圧倒的な生産力と、それに伴う経済的侵略の脅威に対するための、他の西欧諸国による資本主義の導入には、少なからず倫理的色彩が伴っていたと思われます。
欧米以外では、唯一早期かつ自立的に資本主義化を達成した日本でも、それは明らかです。
列強の侵略に対抗しようとした当時の日本人の、外敵からの防衛意識や国家と国民の自覚と使命感といった、ある種の倫理的価値、そして日本独自の職業倫理が強く働いたはずです。

しかし、時を経て今では、およそ資本主義が根付くとは思われなかった多くの国々が、資本主義的発展を遂げています。資本主義のスタートに自前で用意しなければならなかった資本や労働力、インフラ、市場、ましてやその精神も、いまや必須ではなく、投資機会がある時間と空間さえあれば、どんな所でも資本が投入され、利潤を生むのです。
グローバリズムが進み、資本は自由に国境を越えて世界に跳梁します。
そして現在、資本が従来的意味での利潤や配当からも独立して、自己のみで膨らみ増殖していくかのような、資本主義の究極の姿ともいえるような事象を目の当たりにしています。

「ITビッグ4」と呼ばれる超巨大企業があります。ご存知、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルの4社です。頭文字をとってGAFAとも呼ばれます。(マイクロソフトを加えて、ITビッグ5と呼ばれることもあり、この5社は米国株式時価総額上位5社です。)
これらのIT巨大企業に代表される新興の急成長企業は、資本市場から金を調達して、もうけた金は投資や買収につぎ込み、ブレーク・イーブン(収支ゼロ)或いは赤字で経営し、会社をタックスヘイブンに移転して法人税を逃れ、ひたすら資本の増殖を図るという点で共通しています。もっと正確にいうと、株式の時価総額を増やすことが企業目標なのです。

限りなく実体から遊離した「仮想資本」ともいえる、時価総額の極大化モデルの企業が、たとえ消費者にとっては良いことでも、社会にとって良いことなのか、大いに疑問です。
消費者を便利にしているけれど、プライバシーの侵害や情報流出、フェイクニュースなどの問題を生んでいます。雇用を創出する一方で、雇用を破壊し、新しい産業を起こして古い産業を破壊し、競合する相手をいち早く排除して独占的地位を築き、有望なスタートアップに触手を伸ばし、富を集中して格差を拡大し...と、あげつらえばきりがなし。

ともあれ、現代は、株式の時価総額という仮想資本の増殖をひたすら目的とする、新型の資本主義が跋扈しています。このシステムを駆動するエンジンは一体何?
シリコンバレーの若者たちのアイデアや思いつきを、ビジネスモデルに仕立て、尋常ならぬ自信や執着心、成功願望、競争心や支配意欲などが凝集されてスタートアップし、そこに世界の有り余る資本が群がり集まり、巨大なキャピタルゲインを目論むのです。
限りなく増殖する強欲のデーモンに取り付かれたかのようです。

しかし今、ようやく逆風が吹き始めているようです。隆盛を極めた王国もどこか不安げ?



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資本主義の精神1

資本主義(capitalism)とは何?
蓄積された富や貨幣という意味での資本という言葉は昔からありましたが、資本主義という言葉は19世紀半ばから使われ出しました。そしてその意味は単純に言えば「工場や労働力などに投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて、あたかも資本が自律的に増殖するかのような経済システム」ということになるでしょうか。
なんか良く解からないような定義ですが、金利の複利システムを例にすると解かるかも。
複利はご存知のとおり、お金を貸し付けて、一定期間後に生じた利息を、何かに消費するのではなく、元のお金に加えて貸し付ける、利息が利息を生じるシステムです。
つまり金(資本)が自己増殖し、金(資本)が蓄積されていくということになります。

古来、貨幣は単なる交換手段として用いられ、また貸付利息は大体世界の多くで、良くないものとされ、多くの宗教もこれを禁じていたのです。単なる交換手段である貨幣が、時間と空間の差を利用して新たな貨幣を生むということは、昔は罪悪だったのです。
また資本を投入して得た利潤は、利潤に応じた消費がなされ、或いは富として蓄積はされても、資本として再投入されることはないのが常態だったのです。
では金利が罪悪と考えられ、また資本が増殖し蓄積されることがなかった時代から、資本が資本を生み、利息が利息を生む時代への大転換はどうして起こったのでしょう。

18世紀のドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、キリスト教宗教改革の指導者ジャン・カルバンから始まるカルバン主義と呼ばれるプロテスタントの役割を論じています。
カルバン主義は「人間が救われるか否かは、あらかじめ決まって(予定されて)いる。だから人間が善行を積もうが悪行を重ねようが関係がなく、また救われるかどうかを知ることも出来ない」という神の恐ろしいまでの絶対的な存在を説きます。それが何を意味するって?

そんな状況に置かれたとき人はどうする? 既に神によって決められているなら悪行をしてもOK? それともやけになって享楽に走る? しかしそんなことにはならなかったのです。
人々は、そこから逃れるために「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という、原因と結果が逆転した論理を生み出したのです。
そして人の行動において、一切の欲望や贅沢を禁じ、神が定めた職業や天職である労働に注進することに集中させました。

こうして、人々は禁欲的労働という倫理的態度を生み出しました。
信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に尽し、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができたのです。
「行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その結果として利潤を得るのであれば、その利潤は、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。」
かくして人々は、自らの生活を禁欲的なものとして、生活に計画性と組織性を取り入れ、これを徹底的に合理化したのです。
利潤は消費や浪費に使われず、資本に追加されて更なる利潤の追求に向けられたのです。

そして18世紀、英国に産業革命が起きました。生産力の格段な向上に対応する労働力や資本、消費需要などの全ての拡大、それを実行するための計画性や合理性、そして利潤の蓄積と再投資など多くのことが求められました。カルバン主義はその精神的・倫理的な骨格、すなわち資本主義の「精神」を成すことになり、ここに近代資本主義が誕生します。
カルバン主義が主に英国、オランダ、そして米国に信仰を広げていた結果、それらの国が産業革命にいち早く適合して、資本主義の先駆者となった理由はそこにあります。
このように金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、金儲けを積極的に肯定する論理と資本主義を生み出したとウェーバーは説明します。
ただしウェーバーは「経済と社会」という著作で、資本主義経済の成立には合理的国家・合理的法律も本質的な役割を果たした、と述べていて、カルバン主義だけで資本主義が成立したわけではないといっています。

しかし、この禁欲的労働の倫理は長くは続かないのです。
産業化が進展するとともに、信仰が薄れて世俗化が進み、禁欲的労働の倫理の色彩が弱まり、利潤追求自体が自己目的化する、すなわち信仰なき資本主義が浸透していくのは、いわば自然のなり行きでした。
また資本主義の導入に遅れた、カトリックを多く信仰する他の欧州諸国も、産業革命の圧倒的な生産力に対抗することを余儀なくされ、資本主義の導入を急ぎます。急速に拡大する資本需要は、もはや利潤を消費や浪費に向けることなく蓄積、再投資されていきます。
かくして内からの動機に基づくものであった利潤追求が、外圧的な動機に変貌して、利潤の追求と蓄積が自己目的化して行くのです。

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雪解けのフクジュソウやカタクリ

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雪が解けると真っ先に芽を出し、花を咲かせるのが、この「福寿草」です。
福寿とは幸福と長寿を意味しています。江戸時代から園芸種として多く育てられているそうです。花の咲く期間は比較的長いのですが、花が枯れると程なく葉も落とし、地上から姿を消します。そのため、スプリング・エフェメラル(春の妖精)と呼ばれます。

同じようにスプリング・エフェメラルと呼ばれるのが「カタクリ」です。
落葉樹林によく生育し、春に落葉樹が葉をつける前の明るい林に芽を出して花を咲かせ、落葉樹が葉をつけて林が暗くなるまでには地上から姿を消します。
花も葉も姿が見られるのは福寿草より短い期間で、また葉も一枚か二枚で、これで充分な光合成をして生育出来るのかと思わせるほどです。
しかし、根(鱗茎)は年月をかけて大きくなり、昔はこの鱗茎から片栗粉を精製しました。

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光合成は大きく2つの反応に分けられます。光エネルギーを化学エネルギーに変換する光化学反応(明反応)と、化学エネルギーから糖を合成するカルビン回路(暗反応)です。
福寿草もカタクリも春のうちに明反応だけ行って、化学エネルギーを蓄え、そして葉を落としたあと、暗反応で根や鱗茎を発達させているのでしょうか。

ところで福寿草には強い毒性があります。誤って食べると、心臓麻痺を起こす危険があるのです。芽が出たばかりの福寿草はフキノトウと間違えて食することがあるそうです。
庭にはスイセンやマムシ草、そしてトリカブトなど毒性のある植物が沢山あるのです。

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フラーレンとカーボンナノチューブ

フラーレン (fullerene) は、数個から数十個ないしそれ以上の、炭素原子のみで構成される閉殻空洞状の構造をもった炭素の同素体です。同素体とは「同じ原子で構成されていて、原子の配列(結晶構造)や結合様式の関係が異なる物質」をいいます。
ダイアモンドやグラファイト(黒鉛)などが、フラーレンと同じ炭素同素体です。
フラーレンにはいくつもの種類がありますが、代表的でもっとも知られたものが、炭素原子60個で構成されるサッカーボール状の構造を持ったC60フラーレンです。

フラーレンが発見されたのは1985年です。米英の研究者チームが、真空状態でグラファイトにレーザー光線を当てて蒸発させて、グラファイトが炭素数個から数十個の断片(クラスター)に砕け散る様子を調べていたところ、このクラスターの中に、C60フラーレンを偶然発見したのです。

左がC60フラーレン、右がカーボンナノチューブの構造です。(Wikipedia)
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そして1990年に、炭素の電極をアーク放電によって蒸発させると、電極の「陽極」側に溜まった堆積物に、C60が大量に含まれていることが発見されて、C60フラーレンの大量合成が可能になりました。
フラーレンという名の由来は建築家バックミンスター・フラーの建築物であるジオデシック・ドームに似ていることから、フラーの名をとって名付けられました。

さらに1991年、日本人研究者が、その方法でフラーレンを観察しようと、陽極と反対の「陰極」側に溜まった堆積物を透過電子顕微鏡という装置で観察したところ、球状のフラーレンとは全く違う、からみ合った細長いチューブ状のものが、その詳細な構造まで観察されました。これが「カーボンナノチューブ、CNT」の発見です。
ナノチューブの由来は、その直径が0.4~50n(ナノ)mというサイズだからです。
CNTの発見当初は、フラーレンの一種と見られたりしたのですが、その後、大量合成法が見つかったのと、その特性による用途の多さから、今ではフラーレンよりも注目される物質になっています。
因みにナノチューブと呼ばれる構造は、CNT以外にも、ケイ素や窒化ガリウムなど、多くの物質によって作られたものが発見されています。

ベンゼン環などの六角形を作る炭素同士の結合は、原子結合の中でも最も強いといわれます。その六角形が蜂の巣のようにつながった構造をしているのがグラファイトです。
そしてC60フラーレンは、20個の6角形の環と12個の5角形の環が繋がった球体で、とても強固な構造になっています。
CNTは一様な平面のグラファイト(グラフェンシート)を丸めて円筒状にしたような構造をしています。つまり全体がこの最強の結合で出来ているので、極めて強い構造なのです。

この二つの物質の主な特徴を挙げると、
フラーレンは物理的に極めて安定で、水や有機溶媒に溶けにくい性質を持っています。
そのため、この物体単体の利用開発が妨げられていますが、化学的に活性や反応性などの機能を変化させて水溶性を増すと、様々な物質と反応することが知られています。
応用は、半導体材料としての研究や、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の特効薬としての利用が進められています。また活性酸素やラジカル(不対電子をもつ原子や分子あるいはイオン)を消去する作用により、美肌効果や肌の老化防止効果があるとされており、美容液やローションなどに配合されています。

CNTでは、その構造によって電気伝導率やバンドギャップ(半導体などで利用される物理的特性値)などが変わるため、シリコン以後の半導体の素材として、あるいは集積回路への応用が研究されています。
導電性の高さと表面積の大きさから燃料電池としての応用も進められています。
さらには複合材として用いる事でハイパービルディングや大型の橋梁用ケーブル、自動車、航空機、宇宙船などの、従来物質では不可能な構造物への応用が考えられます。

現在のところ、実際の利用はフラーレンよりもCNTのほうが進んでいて、試しにネット検索すると、CNTでは多彩な企業や研究機関のページが占めているのですが、フラーレンのほうは乳液とか、お肌のケアといった化粧品関係がずらずらと並びます。

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超伝導技術の応用

一般的に金属は温度が下がると、電気抵抗が下がる傾向がありますが、温度をどんどん下げていって-273℃の絶対零度に近付くと、電気抵抗が急激に下がり、「ゼロ」になる点があります。これを超伝(電)導現象といいます。
超伝導現象が発見されたときの伝導物質は水銀で、液体ヘリウムを使って-273℃の絶対零度に近い温度まで下げる必要があったため、応用が難しかったのですが、今ではより高温で超伝導現象が実現できるようになりました。液体窒素の沸点である-196℃以上で超伝導現象を起こすものは、「高温超伝導物質」と呼ばれて近年、応用の道が広がりつつあります。こんな低温を高温と呼ぶなんてちょっと変ですが。
現在、超伝導の応用では、実用化されているものの代表が、医療用核磁気共鳴画像撮影 (MRI) 装置です。また、実用化が近いものでは、超伝導リニアモーターカー、そして試験段階にあるのが、超伝導送電などです。ここでは後の2つをとりあげます。

超伝導リニアモーター
2027年に開業を目指す中央新幹線は「超伝導リニアモーター」を利用しています。
リニア (linear) とは「直線の」という意味です。リニアモーターとは、通常のモーターが回転運動するのに対して、直線運動をするようにしたものです。
回転型のモーターは、回転軸の周りに電磁石Aが円筒状に並び、その外側に固定した磁石Bが配置されます。Aに電流を交互に向きを変えて流し、AのN極とS極を入れ替えることによって、両磁石間の引力と反発力で、Aが回転運動をします。
リニアモーターでは、電磁石Aは円筒状ではなく、まっすぐ帯状に並んで固定され、磁石BがA磁石列の上に位置します。A磁石列に電流を向きを変えて流し、N極とS極を入れ替え、Bとの間で交互に引力と反発力を生むことによってBが直線運動をします。

中央新幹線のリニアモーターカーで使われる超伝導技術は、車両に設置されて磁石Bに相当する超伝導コイルです。磁石Aは軌道上(の側壁)に並べて、交互にS極とN極を切り替え、車両の超伝導コイルの磁石との引力と反発力によって推進します。
さらに軌道上に3つめの電磁石が、車両を浮上させるために設置されます。
この磁石と、車上の超伝導コイルとの間で、車両を上方向に浮上させる力が働きます。
新幹線が走行するときは車両は軌道に触れずに、浮いて走行するのです。

車両に搭載された超伝導コイルは、ニオブチタンという合金の導線をコイルにして、車両の側面に設置されています。そしてこの合金が超伝導になる温度ー263℃になるように、液体ヘリウムで冷却されます。
超伝導コイルは電気抵抗がゼロなので、半永久的にいくらでも電流を流し続けられ、非常に強力な電磁石を形成することが出来るのです。この強力な超伝導電磁石で、軌道上の直線に並べられた電磁石との間で強い引力と反発力が生じ、推進力となるのです。

リニアモーターと超伝導磁石による「中央新幹線」は、時速500キロメートルの速度で東京と名古屋を40分で結ぶ、夢のような計画です。しかし一方で課題も多いようです。
1.採算性:在来新幹線からの旅客の移動を6割と見積もった上、両新幹線の総需要の大きな増大により増収増益を見込んでいる試算は、人口が減少し高度成長も見込めない日本では、甘い見積もりではないのかという批判があります。
2.電力消費:総電力消費は27万キロワットと見積もられています。また同じ1名の乗客が同じ距離を移動するのに、在来の新幹線の3倍ほどの電気を消費すると推算されています。
3.難工事:東京ー名古屋間ルート全体の9割近くがトンネルで、赤石山脈など多くの山中を通過するうえ、糸魚川静岡構造線の大断層帯を長大トンネルで貫通する地形問題も課題となっています。
4.建設コスト:現在の見積もりでは工費5.5兆円といわれる巨額の建設費用がかかります。

折しも工事受注に大手ゼネコン間で談合があったのではないかと、お調べが進んでいます。難工事と高建設コストの課題が早くも露呈したようですが、最先端技術の実用化と、伝統的な?談合の組み合わせは何とも日本的な情景でしょうか。

超伝導送電
電力送電線に超伝導技術を使う方法が開発されています。
超伝導送電線は、直径15cmほどのケーブルで、構造を簡単にいうと、外側が断熱材で、中心がイットリウム、バリウム、銅などで作られた酸化物の高温超伝導物質を使った電線、そしてその間に-196℃に冷却された液体窒素を循環させるような構造です。
電気抵抗がゼロなので、流れる電気のロスがありません。窒素を冷却し、循環させる電力が必要ですが、それを差し引いても、送電ロスを4分の1程度に減らせるということです。

2012年、東京電力やNEDOなどによって行われた「交流超伝導送電試験」では、変電所の送電線の一部を240メートルの超伝導ケーブルに置き換え、20万キロワットの電力を1年間にわたって送電しました。
また2015年、北海道で石狩超伝導・直流送電システム技術研究組合が行った「直流超伝導送電試験」では、500メートルの超伝導ケーブルに10万キロワットの直流電力を流しました。

直流送電は今まで商用電力では使われていませんでした。その理由はただ一つ、送電ロスを少なくするためには出来るだけ高圧にして、流す電流を減らすことが必須ですが、直流を高圧にして、また低圧に戻すこと、つまり変圧(変電)が事実上不可能だったことです。
超伝導送電では、電気抵抗がなくなるので、高圧にする必要がなくなり、また半導体の技術進歩で直流の変圧自体も可能になり、直流送電の可能性が開けました。
さらに直流送電は交流より送電ロスが少ないという特長が生かせます。
電力需要者にとっても、交流よりも直流のほうが使いやすい電気なのです。

ただ、現在の送電はすべて交流の設備で行われているため、既存送電線を超伝導ケーブルに変えるだけでよい交流送電が、先ずは超伝導送電の実用化を担うのではと思われます。
直流超伝導送電は新規の送電に使われる機会がありそうです。
その一つが太陽光発電所から電力を直接に需要者に送電することです。
太陽光で発電する電力は直流で、また需要の多くは直流のほうが使いやすいので、両者を直接、超伝導ケーブルで接続して、直流超伝導送電を行えば、送電ロスもなくなり、また変電設備などの設備も最小限で済むことになります。

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ミクロとマクロの経済学

ミクロ経済学とマクロ経済学
現代の経済学には、ミクロ経済学とマクロ経済学があります。
ミクロ経済学は、個々の消費者や企業の経済行為を中心にして経済事象を分析します。
具体的な経済生活や売買行為で、どのように価格が決定されていくのかといった市場メカニズム(価格メカニズム)を中心に理論を形成していきます。

マクロ経済学は、政府や企業、個人という個別の経済活動を集計した一国経済全体を扱い、マクロ経済変数の決定と変動に注目し、適切な経済指標とは何か、望ましい経済政策とは何かという考察を行います。国民所得や失業率、物価、貯蓄、消費、投資、国際収支などの集計量が元になります。またマクロ経済分析の対象となる市場は、生産物(財・サービス)市場、貨幣(資本・債券)市場、労働市場に分けられます。

ミクロ経済学はアダム・スミスによって始まったといわれています。
スミスは、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が、あたかも「見えざる手」に導かれるかの様に達成されると考えました。スミスは「価格メカニズム」の働きにより、需要と供給が自然に調節されると考えたのです。

以来、ミクロ経済学はこの価格メカニズムの解明に力を注ぎ、レオン・ワルラスの、いわゆる「均衡理論」に至ります。1874年に発表された「純粋経済学要論」でまとめられた一般均衡理論は、完全競争市場では消費者にとっての効用と供給者にとっての効用が最大になるような価格・量で均衡するという考え方です。
今日、一般均衡理論は、現代経済学の基礎的な理論の枠組みを提供しています。
ワルラスは経済学に積極的に数学を導入し、その後経済学は数学的に洗練されていきます。

マクロ経済学は、ジョン・メイナード・ケインズが始まりとされます。
1936年に発表された「雇用・利子および貨幣の一般理論」の根幹は、有効需要の原理で「供給量が需要量(投資および消費)によって制約される」というもので、それまでの「供給はそれ自身の需要をつくり出す」(セイの法則)を否定します。
そして有効需要は、市場メカニズムに任せた場合には不足することがあるが、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づいて、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、有効需要は回復することができるとしました。

このような原理から、有効需要の政策的なコントロールによって、完全雇用GDPを達成することを目的とした、総需要管理政策(ケインズ政策)が生まれ、これは「ケインズ革命」といわれています。
ケインズの考え方は、経済学を均衡理論を核とするミクロ経済学(新古典派経済学)と、有効需要を核とするマクロ(ケインズ)経済学とに、真っ二つに分けることとなりました。

新しい古典派経済学
ところが、1970年代、同一の経済現象を、ミクロ経済学とマクロ経済学が、別々に説明するのはおかしいという主張が登場し、マクロ(ケインズ)経済学を批判します。
そして「合理的期待形成」という、現代の経済学の中心的命題を提唱します。
人は様々な期待を抱いているが、利己的であるならば、この期待は自己がもっとも得をするような合理的なものとして形成されるはずだ、というのが「合理的期待形成」説です。

ケインズ経済学では、過去のデータを用いて経済主体の行動を推定して将来のとるべき政策を策定するため、このような経済主体の予測、つまり期待を織り込むことが出来ないという批判です。またケインズ批判にとどまらず、「合理的な経済主体」の最適化行動に基づいたモデルを作って、経済主体の行動の集計されたものとしてのマクロ経済を分析しようとしました。マクロ経済学の理論は、ミクロ経済学に「基礎づけられていなければならない」としたのです。

80年代になると合理的期待形成学派がマクロ経済学を席巻します。この条件を満たしていないマクロ経済学、すなわちケインズ経済学は死亡宣告されてしまったのです。
なおこの立場をとる経済学は「新しい古典派、ニュ-・クラシカル」と呼ばれ、それまでの「新古典派、ネオ・クラシカル」とは一応区別されています。
またミクロ経済学は、外部(不)経済や情報の非対称性などによって、市場が最適でない状態になる、「市場の失敗」と呼ばれるような現象に関心が向けられるようになりました。

経済政策との乖離
てなことで、マクロの経済学がミクロに基礎づけられ、要するに統合されて、論理的一貫性も得て、メデタシメデタシとなる筈ですが、そうは問屋が卸しません。
実際の経済と関わりを持ち、少なくとも検証と反証可能性を持っていたマクロ経済学が、それを持たないと考えられるミクロ経済学に統合された結果、科学の方法から乖離したことは前回述べました。さらに、ニュ-・クラシカル経済学は、経済政策とも乖離するのです。

ニュ-・クラシカル経済学では、財政・金融政策の効果についてケインズとは、全く異なる考え方をします。ケインズ経済学では経済の状態が思わしくないときは、積極的な金融・財政政策を政策提言しますが、ニュ-・クラシカルでは、財政政策もまた金融政策も実質GNPの水準に影響を与えないと考えます。要するにミクロ経済学の、自由で競争的な市場に任せるべきという帰結をマクロにも適用するのです。
景気安定のために政府ができることは殆ど無いというこの結論は、しかし現実に取られている政策と全く異なります。
特にリーマンショック後の世界は、経済学の主張とは全く逆に、世界中で財政・金融政策が積極的に行われたのです。要するに経済学は、シカトされたわけです。なんで?

時代の経済状況と経済学
振り返れば、経済学は常にその時の社会経済状況に深く関わってきました。
ケインズは1920年代に起きた大恐慌への対策として、利子率の切り下げ(金融政策)と社会基盤等への政府投資(財政政策)が必要と考えました。
ケインズ理論を基盤にした政策は大戦後も続き、1960年代までは米国、欧州、そして日本においても、政府の基本政策だったのです。

ところが、1973年のオイルショックにより、世界の高度成長に急ブレーキがかかると、巨額の財政赤字が政府の肩にのしかかった結果、大きくなりすぎた政府から一転、「小さな政府」が社会的要請となりました。ケインズ経済学は政府肥大化の元凶となり、80年代は合理的期待形成学派を筆頭に、反ケインズ主義が経済学を席巻することとなったのです。
そして英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権が登場し、ともに大胆な市場主義改革を先導したのです。
その後も90年代のグロ-バリゼーションと相まって、市場主義が世界の潮流となりました。

そして2008年のリーマンショックです。市場主義の行き過ぎだか何だかで、米国住宅バブルの崩壊とともに起こった金融危機から、世界同的的な経済の混乱と冷え込みに陥ると、各国の政策は、財政政策と金融政策、つまりケインズ経済学の一点張りともいえる状況になりました。あれ?ケインズは死んだのではなかったの?

これらの意味するところは、経済学は時代文脈に深く依拠してきたこと、そしてその理論が正しいかどうかは別として、少なくとも国家政策の拠り処とはなってきたということです。しかし随分前から、経済低迷の対策として、多くの国でケインズという亡霊が呼び戻されていて、ニュ-・クラシカル経済学は蚊帳の外のようです。
低成長もさることながら、現在の最大の問題ともいえる富の偏在と経済格差の危機的な拡大あるいは経済の限りないバーチャル化という状況に対しても、経済学は目を閉じているのか、或いは経済学に沿わない現実が間違っているのだと、うそぶいているのか?
まさしくパライムシフトが必要な現代の状況に見えるのですが...


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ミクロとマクロの物理学

ミクロというのは微小、微視的で、マクロというのは巨大、巨視的といった意味です。
この両語が使われる例に経済学があります。ミクロ経済学とマクロ経済学です。
また物理学でも、はっきりとは謳われないけれど、ミクロとマクロと呼ばれる関係があります。大きく分けて、ミクロに相当するのは量子力学で、マクロに相当するのはニュートン力学および相対性理論、そしてマクスウェル電磁気学です。
量子力学を除いた後の三つ、つまりマクロの物理学は、古典物理学とも称されます。
量子力学は、さらに量子論へと発展しますが、ここでは量子力学と記します。

物理学では、力を扱う「力学(mechanics)」が、最も重要で基本的な分野とされます。
理論物理学によれば、われわれの住むこの自然界には「四つの力」があります。
「重力」と「電磁気力」そして「強い力」と「弱い力」の四つです。
自然界のすべての現象は、四つの力によってもたらされるのです。

重力と電磁気力は、馴染みが深いのですが、あとの二つはあまり聞き慣れない力です。
ミクロすなわち微小の世界の力だからです。
強い力は、四つの力の中で一番強い力で、原子の陽子や中性子を作り、またそれをまとめて原子を作る力です。そして弱い力は、電磁気力よりずっと弱い三番目の大きさの力で、原子が他の原子に変わるベータ崩壊などを起こす力です。この二つの力は、力の影響する範囲が極めて小さく、微視的にのみ観測可能なので、日常に経験することはないのです。

電磁気力は、強い力に次いで強く、しかも到達範囲がどこまでも及び、自然界では雷とか静電気、磁石などで観察することができます。
重力は、他の三つの力に対して極端に弱い力で、ミクロの世界では、未だ検出することも出来ていないのですが、力の到達範囲がどこまでも及び、また重力というように物質の重さ(質量)が大きくなれば、大きな力になるので、日常の世界さらには宇宙的規模では重力のみ現れることになります。なんとも不思議な4つの力ですねえ...

で、四つの力のうち、重力については、マクロの事象を扱う相対性理論もしくはニュートン力学の分野です。(日常的世界ではニュートン力学が応用され、宇宙的規模では相対性理論が応用されます。)
強い力と弱い力については、ミクロの事象を扱う量子力学の分野です。
そして、電磁気力については、量子力学とマクスウェル電磁気学の両方で扱われます。

では、そもそもミクロ物理学とマクロ物理学の関係、つまり量子力学に対する相対性理論およびニュートン力学、電磁気学などの古典力学との関係は、どうなっているのでしょうか。
実はミクロではマクロとは全く異なった世界が展開されるのです。
量子力学では量子という極小単位の物質を取り扱います。その量子については、ちょっと前に「量子コンピューター」で触れました。その一節を載せます。

『量子(quantum)とは何か?物理学の量子論で取り扱われる物理量の最小単位のことで、光子や電子、陽子、素粒子などが量子です。
量子は波と粒子の相容れない二つの性質を持つ(二面性)摩訶不思議な存在です。
実際、昔から光は一体、波なのか粒子なのかということは、ずっと議論されてきました。
そしてこの問題の解明について、1900年ごろから、当時の傑出した物理学者たちの大発見や大論争を経て急速に発展し、量子力学という新しい物理学が誕生しました。量子力学は量子論へと発展し、今日のミクロの世界における物理学の核心分野となっています。』

量子力学の世界は、この「二面性」や「確率の波」、「不確定性原理」だとか、あるいは「因果律が成り立たない」とか、奇妙奇天烈な事象のオンパレードなのです。
アインシュタインは、相対性理論をはじめとした業績の大部分を若いころに成し遂げた後の半生の多くを、量子力学への批判とそして哲学的思索に費やしたことが知られています。量子力学の確率的解釈について「神はサイコロを振らない」といった言葉は有名ですね。
また彼のアイデアを元にした「半分死んで半分生きている状態」の「シュレジンガーの猫」とか、当時の量子力学への反論や批判の逸話にはこと欠きません。

しかし、やがて否定的見解は薄れて行き、量子力学はミクロの物理学として発展します。
今ではミクロの領域にとどまらず、様々な物質の化学的および物理的性質(電気伝導性など)のような日常的な事も、量子力学によって説明がされているのです。

ということで量子力学と古典力学は、その対象も方法も全く異なりますが、そもそもミクロの世界とマクロの世界では、物質の振舞い方、現象の現れ方が異なり、ミクロの集合がマクロとはいえないのだと理解すれば、両者は棲み分けることが出来るということでしょう。
この辺りで、ミクロの集合がマクロとならなければいけないと無理に統合してしまった、数学的論理性に拘る経済学との違いが明らかです。
ただし物理学においても、ミクロとマクロが違って良い筈がないといったのが、アインシュタインを代表とする人達であり、また無理に統合しようとして、多元的世界(パラレルワールド)なんてのを考え出したのも物理学者ではあったのですが...
基本的には、解明できることを追求し、解明できないことは追わない、或いは先送りするというのが、科学界の実際の姿のようです。


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パラダイムと反証可能性

パラダイムとは、日本語では「範型」などと訳されますが、「ある時代と社会における支配的な思考の枠組」というような意味です。それが、劇的に変化することを、パラダイムシフトとよびます。
もともとは科学史家トーマス・クーンによって、科学者集団の「科学の方法における一定の枠組み」といった意味の特殊な用語であったものが、一般化、拡大化して今日、広く使われるにいたりました。「発想の転換」なんてことにまで、使われたりしています。

トーマス・クーンが「科学革命の構造」(1962年)において提唱したパラダイムとは「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」というように定義されています。
ある時代における科学者集団の科学の思考の枠組みといった意味です。これが、ある時に劇的に、革命的に変わることがあって、それをパラダイムシフトと呼びます。

パラダイムシフトの一例として、天動説と地動説が挙げられます。
天動説が支配的な時代は、科学者(天文学者)集団は、天動説理論を前提として研究を行っていました。ところが、その前提では解決できない例外的な問題が次々と登場します。
科学者は新しい理論を模索し、その中で、地動説という、問題解決のために有効なものが現れます。科学者集団の中で、検証され、論争が行われ、そして地動説が支持され、支配的な理論となるのです。つまり天動説パラダイムから地動説パラダイムへ、シフトするのです。
ニュートン力学とアインシュタイン相対性理論もそんなパラダイムシフトの代表例です。
したがって、パラダイムシフトは、科学理論の漸次的な発展といったものではなく、全く新しい理論への大転換です。それゆえ、クーンはこれを「科学革命」とも呼んでいます。

もともとは物理学者であったクーンは、パラダイムの概念を、自然科学の方法に限定しましたが、この言葉は自然科学の枠を大きく超え、思想や社会現象などで広く用いられるようになりました。ついには「集団の思考枠組み」から個人のレベルにまで広がり、今では認識のしかたや考え方、支配的な解釈、などの意味合いにまで、拡大解釈して使われます。

ともあれ、パラダイムの考えは、科学に対する一般的見解を、大きく揺さぶりました。
客観的、普遍的な、そして万物の深遠な真理に迫るのが科学と考えられていたのが、「時代と科学者集団の価値に依存」しているというのです。実際、カール・ポパーをはじめとして、それまでの科学論の側から、相対主義だとして、大きな論争が起こりました。
しかし、科学界の外(哲学)からの「あるべき姿の科学」を退け、科学界で実践されている「実際にある姿の科学」を明らかにしたクーンのパラダイム概念は、前述のように科学界のみならず、広く社会に認知、受容されたのです。

ところで、クーンの前に、科学の方法、それも社会科学の方法も含めて論じた、前述のカール・ポパーという哲学者がいます。
ポパーは、「科学理論がどれだけ検証に耐えたところで、理論の正当性を証明することは出来ない。出来ることは理論が誤りであることを証明(反証)することだけである。
したがって科学理論が満たすべき基準とは、反証による検証が出来ることである。
すなわち反証可能性を持つものが科学である。」と定義しました。
そして「反証不可能な命題は科学的命題ではなく、イデオロギー的命題すなわち形而上的命題である。」としたのです。

しかし、ポパーは哲学者であって科学者ではありません。実際の科学の実践現場は、そんなに単純ではなかったのです。ただ一回の反証で理論の誤りを証明できるとしたポパーの考えは、科学界の実際とは、大きくかけ離れていました。科学者間で、一度正しいとされた理論は、一つや二つ反証されても、揺らがないのです。
科学はむしろ、絶えず反証にさらされているのが常態といえます。大抵の反証は、反証の方法や前提の不備、観測の誤り等々の理由で、退けられてしまうのです。
従って反証可能性を有することは必要条件ではあっても、反証そのものが理論の誤りを指摘することにはならないのです。

またポパーは、反証に極めて大きな意味を与えたため、(反証)実験の正確性について過大に期待していました。理論の不確かさにひきかえ、実験結果はつねに正しいとしたのです。
同時代の物理学者、ウェルナー・ハイゼンベルグの「不確定性の原理」は、今日の量子力学の核となる理論ですが、実験と観測が「因果律」に従わないこの理論は、ポパーにとって、予期せぬ理解しがたいものでした。ポパーは、ハイゼンベルグが間違っているとして、間違いを指摘する怪しげな実験を提唱したのです。
因みに、ハイゼンベルグの成果については、もう一つの「行列力学」とともに、さまざまな思考実験による反証がなされました。その中心は何とアインシュタインでした。
ポパーはそこにくちばしを突っ込んだという訳です。しかしハイゼンベルグの理論は多数の科学者の支持を得、現在に至るまで極めて妥当な理論であるとされています。

反証可能性は、自然科学の分野では、大きな影響をもたらすことはなかったのですが、社会科学の分野では、一定の影響をもたらしました。
ポパーは、社会科学の方法にも言及し、自然科学の方法と同じ方法が用いられるべきだとしました。彼の攻撃の対象となったのは、マルクス経済学及び、その他のいわゆる歴史主義的経済学です。これらを「反証可能性を持たない形而上学だ」として攻撃しました。
自然科学、特に物理学の方法に憧れ、経済学を「科学」たらんとした経済学者たちは、ポパーの反証可能性に跳びつきました。

しかし今日、標準となっている経済学が反証可能性を持っているかというのは、いささか問題があります。特にミクロ経済学の核である均衡理論は、厳密な諸前提を設定し、後は数学的演繹で結論を導く方法が、反証可能性の条件を備えているのかは大いに疑問です。
だとすれば、ポパーは、お墨付きを与えた主流派経済学まで、科学ではないと規定してしまったことになるのです。

1970年代、経済学界で大きな論争が起こりました。その結果、個人や企業の経済活動を集計した一国全体の経済分析をしようとするマクロ経済学と、消費者と生産者の需要と供給から市場の構造を一般化しようとするミクロ経済学が、同じ経済現象をそれぞれ別個に分析するのはおかしいとする経済学者によって、マクロ経済学をミクロ経済学の延長ないし拡大と位置づけて、事実上統合してしまいました。

このことは方法論的には、反証可能性を有していたと考えられるマクロ経済学が、それを持たないミクロ経済学に統合されたことを意味します。
従って今や、経済学と科学の方法的類似性は「専門家集団によるパラダイムに則って営みがなされている」という点にのみ存在することになります。
しかし形の上では、科学と同じような方法に則っているかに見えるものの、常に不断の検証と反証にさらされ、またパラダイムシフトが起きる可能性がある科学との隔たりは極めて大きいのです。


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