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樹木の水の吸い上げ

今年は梅雨入りがはっきりしないで、あまり雨も降らずに暑い日が続き、草花や菜園の作物どころか、木々までげんなりしていました。これは全体に水遣りをしなければと思っていた矢先に大雨が降って、そのあとも雨模様で、まるで今が梅雨かと見紛う日々です。

ところで植物、特に高い樹木の「水を吸い上げる仕組み」はどうなっているのでしょうか。
大気圧による水の上昇は10mが限度ですが、10mを超える木は、ざらというより普通の存在ですから、他の力によって吸い上げられているのですね。
まず水の吸い上げの始まりは「根」です。地中の水分を根が「浸透圧」によって内部に運び、そして上に押し上げます。これを「根圧」といいます。
吸い上げた水の出口は「葉」です。葉から大気中に水が蒸散すると、葉内部の細胞液の濃度が上昇し、細胞外部との間に「浸透圧」が生じ、水を吸い上げようとします。これは「蒸散力」です。

根と葉の間が幹(と枝)です。幹の内部は無数の細い細い導管が、幹の下から上まで通っています。導管内の水は「水素結合」という強い結合力によって、1本の糸のようにつながっています。
葉の蒸散力が、この水の糸を引っ張り、根の根圧が水を押し上げ、水が吸い上げられるのです。
蒸散力と根圧と水素結合によって、100mを超える樹木でも、水を吸い上げてしまいます。

ところで樹木を伐るのは、葉が落ち、そして水分が根まで下がって重さが減った冬に伐るのが一般的です。伐採がちょっと遅れて、春先に伐ると思わぬことが起きます。
杉をチェーンソーで伐ったときは、飛び散る木屑と共に樹液が、まるで血のように飛び散り、たじろぎました。また白樺を伐ったときは、切り株からどんどんと樹液があふれ出て、これまたびっくりでした。

針葉樹の杉は、蒸散力と根圧と水素結合とによって、活発に水を吸い上げる状態だったということ、また落葉樹の白樺は、まだ葉が出ていない状態なので、蒸散力が働いたとは考え難く、根圧だけによって樹液があふれ出たということなのでしょうか。恐るべし、植物の力です。

いづれがアヤメかカキツバタ

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「いずれがアヤメかカキツバタ」といって、秀でたもの二者の、甲乙付けがたいことを意味しますが、実はここに、ハナショウブが加わります。いずれもアヤメ科アヤメ属の花たちの三つ巴?です。
ただでさえ、見分けがつかないのに、さらにややこしいのは、漢字で書くと、カキツバタは「杜若」、アヤメは「菖蒲」、そしてハナショウブは「花菖蒲」となります。
杜若(とじゃく)と、菖蒲(しょうぶ)というまったく別の植物の漢字を誤用してしまったのですね。
ですから漢字は使わず、かなで書くのが間違いないのです。

で、簡単な見分け方は、花の基の部分が白い三角のがカキツバタ、黄色い三角のがハナショウブ、綾目模様がアヤメです。
もう一つ、水の中で咲くのがカキツバタ、乾いた地面を好むのがアヤメで、その中間がハナショウブです。上の画像で左から順に、カキツバタ、ハナショウブ、アヤメです。
どの花も好きですが、あえて言えばハナショウブです。
カキツバタは紫と白のコントラストが「凛々し過ぎ」、またあやめは綾目模様が「うるさい」、ハナショウブの紫と黄色の組み合わせが「ちょっと色っぽい」と勝手に思っています。

伊勢物語に在原業平が、カキツバタを句の頭に読み込んだ歌があります。
 ら衣 つつなれにし ましあれば るばる来ぬる びをしぞ思ふ


低成長経済と拡がる格差2

イノベーションが、どんどん起こり、マネーが世界から集まり、人口も増加している米国においても、経済成長率が3%に達しないということは、理由ははっきりとは解らないものの、どうやら先進国では低成長が常態ということなのかもしれません。
第二次世界大戦後、抜きん出て巨大な工業太国となった米国に牽引された高度成長時代は、1970年台には峠を越していたという見方もあります。
むしろ高度成長のほうが説明を要する事態で、成長しないということが、いわば自然状態であるとの認識に立てば、また違う世界も見えてきます。

低成長と同様に難問なのは「経済的格差、不平等の拡大」です。
これだけ大きな問題で、また多く取り上げられるにもかかわらず、なぜ拡大するのかという理由について、様々にいわれるものの、一致した見解もないようで、よく解らないというのが正直なところです。

経済的格差の要素には、賃金・収入の差、富の偏在、教育費の増大、人種差、男女差、技術の変化、技術革新、コンピュータ化、グローバル化、タックスヘイブン等々が挙げられますが、格差が拡大しているということは、これらの要素がすべて拡大しているのか、それとも、そのうちのあるものが大きな影響を及ぼしているのか定かではありません。
しかし格差の拡大は、低成長と同ように常態だ、などといって済ます訳にはいかないのですが...

競争が格差をもたらしていることは事実でしょう。競争とは優劣や順位をつけること或いは勝ちと負けを決めることです。自由経済競争は杓子定規に言えば、経済格差をつける争いということです。
産業社会の黎明期には、資本家と労働者との間の所得格差が際立ち、労働者の過酷な状況がクローズアップされました。資本主義の進展とともに生じる絶対的な格差の行きつく先として、平等な社会が実現するという共産主義も生まれました。
しかし成長の拡大自体と、特に欧州で生じた社会主義的政策と相まって、格差問題も解決できるとの自信が生まれ、実際しばらくは格差は大きな問題とはされませんでした。

しかしおそらく1970年台から格差が拡大しているようです。
70年~80年代にかけて、先進国経済が低成長になったという見方と符合するかのようです。
拡大する格差を示す例では、米国の上位10%の所得階層が国全体の所得に占める割合は50%という比較的マイルド?な例や、世界の1%の人口が50%の富を有しているというような値まで数字には事欠きません。格差は国の中で、あるいは地域の中のみならず、世界で拡大しています。
成長を求めてグローバル化した市場は世界に広がり、競争は国を超えて世界での競争になり、現代の人々はあらゆる場面で競争をしています、そして競争は激しくなる一方と思われます。競争が激しくなれば格差も大きくなるということでしょうか。

寡占や独占が格差を拡大しているという話もあります。また全世界的に成長が停滞する時代、成長という量的拡大が停滞しているなかで、大きくならないパイの分け前をめぐって、強者が分け前を独り占めするような形で格差が広がっているのかもしれません。
成長さえすれば、少しばかりの分け前は回ってくるものの、今日、それも期待できません。

格差それ自体を否定する人は少数でしょう。完全な平等社会のユートピアは無いのです。
問題は、格差がどの程度まで許されるのか、その客観的な尺度がないことです。
例えば、企業で一般の被雇用者と経営者との賃金格差が何倍ならば容認できるのでしょうか。
被雇用者1000人全員と経営者1人の賃金・報酬が同じだった場合、つまり両者の所得比が1000倍を超えるような時、許容できるのか、できないのか?
結局のところ、どれだけの人がそれを容認できるか、できないかというところにしか基準がないのが厄介です。しかしすでに容認できない程度に拡大していると、大多数が判断する段階だと思われるのですが...

格差拡大の本当の理由がわからないとしても、対処する方法があれば、暫くは何とかなります。
所得の分配の不平等さを解決する方法の一つが社会福祉政策にありますが、もはや各国は財政の悪化によって、そんな余裕はとてもという状態でしょう。
また高所得者に対する税の強化、つまり累進課税は有力な方法ですが、政治はしばしば高所得者に対する課税率の低減という、逆のことをします。またパナマ文書が明らかにしているように、多くの企業や、経営者そして政治に携わる人々の租税回避がこの方法をも無力化しています。
かくしてというか格差の拡大に対する策は尽きたということなのでしょうか...一体どうする?
   ーそのうち続くー つもりですが何時になるか...

低成長経済と拡がる格差1

一般的に「経済は成長するもの、しなければならないもの」と信じられているようですが、疑問の声は少数ですが常にありました。およそ半世紀前ですが、「成長の限界」という研究レポートが大きく取り上げられたことがありました。(ローマクラブ報告)
それは資源や地球の有限性から、人口増加や環境汚染がこのまま続けば、100年以内に成長は限界に達すると警告されたもので、大きな反響を呼びました。
しかし今ではそれも杞憂だったと、多くは受け取られています。
幸い?石油をはじめとした天然資源は枯渇することなく採集され続き、人口増加はしたものの、食料資源は(少なくとも総量では)不足していないし、環境汚染もサイレントキラーなるがゆえに、人々が目を背ければ何も起こらないかのごとくです。

かくして成長の限界は、今ではあまり省みられることも無く、成長する経済の神話は続きます。
ところがどっこい、現実の経済(少なくとも先進国経済)は、ずいぶん前から低成長を続けています。一体どうしてなのでしょうか? 成長の限界の呪縛は解けたはずなのに...
経済が成長するということは、端的にはその規模が大きくなることですが、では規模が大きくなるための推進力は何なのでしょうか?
成長は、一般に労働力や設備の増加による量的拡大と、そして労働生産性や資本生産性などの向上、そして特にイノベーションによる新規の市場拡大によってなされるとされています。
イノベーション( innovation)とは、「新しく採り入れたもの」というような意味で、一般的には技術革新を指すと理解されていますが、それだけではなく、新考案、 新機軸、 新制度など社会的に大きな影響を起こすようなことという意味を持っています。またイノベーションは、概して全ての資源の生産性を向上させる効果があるということで、特に注目されるのです。

ところが、、イノベーションも含んだ生産性の向上は、実のところその正確な把握が難しいという特徴があります。生産性の値は評価基準、評価方法によって大きく影響を受け、また多くの場合、質的つまり定性的な評価を定量的評価に変換することも困難で、結局のところ、成長率の値から設備や人口の増加での量的増加を差し引いた残りが、生産性向上という言葉でくくられてしまうのです。

かって、石油が石炭に取って代わり、そして電力がエネルギー利用の中心になった大技術革新時代は、すべてが量的拡大と質的変革を遂げることが出来たので、格別に生産性やイノベーションが取り上げることもありませんでした。
成長が鈍化するにつれ、こういった言葉が重要視されるのも皮肉な話です。
今日、先進国では、労働人口(および消費人口)の増加や設備などの増加による量的拡大は余り見込めないので勢い、生産性の向上、特に魔法の杖とも見えるイノベーションに過大な期待を抱きがちになりますが、これは内実をよく精査したら、成長に寄与していなかったこともあり得るという、取り扱い注意物件なのです。

イノベーションに多くの期待と力を注いでいる米国では、既存の生産体制の設備や労働力の生産性を高めるというよりも、イノベーションを目指して、新しいことに飛びつく性向が強くあります。
独創性とか個性的とか挑戦といったことに大きな価値をおく傾向に、あふれるマネーのあくなき利益の追求といった要素が結びついているのです。
特に資本は短期で効率的に利益を上げるために、グローバル化を旗印に国や地域を飛び越えて、世界中の金融市場や株式市場で、マネーがマネーを求めて跳梁します。
そして「IT革命」というような、ビッグイノベーションの名のもとに、新しいアイデアで巨額の投資を集め、一気に市場を支配し、短期で巨額の利益を生むという手法が今日のはやりです。

かくして国内の産業は不法合法を問わず、移民の雇用という安易なコスト削減を目論み、多国籍企業は工場を主として事業拠点の海外移転で生産性向上を目指し、あるいは企業自体のタックスヘブンなどへの移転によって租税を逃れ、さらには鳴り物入りのイノベーションが、その担い手たる人材は海外からの人々に頼り、資本はどこのモノとも知れず、そのもたらす果実は四方に拡散し、国家や地域に残されたものは僅かだとしたら...    ー続くー

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