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経済のミクロとマクロ-続

物理学では、ミクロ物理学とマクロ物理学が、研究の対象が異なることと、そして同一の対象でも、ミクロとマクロでは、振舞い方が全く異なった世界が展開されることにより、異なる科学の方法を用いることに通常、問題は生じません。ある意味棲み分けが可能な領域ということです。
一方、経済学では、ミクロ経済学で想定する「合理的な経済主体」の「時を通じた最適化行動」が集計されたものとしてのマクロ経済分析は、ミクロ経済学に「基礎付け」られているということで、両者の方法論的違いはないと主張されます。
ということで、メデタシメデタシとなるはずですが、事はそんな単純な話なの?

ミクロ経済学の核心である「均衡理論」は、昔から多くの批判に曝されて来ました。
批判の多くは、理論の諸前提の非現実さ、結論の非実現性です。
特に「全知全能の神の目を持つ」合理的経済人が、槍玉に挙げられました。

また、神の目が働いた結果(均衡)については、存在することが分かっても、神の目がどのように需給を一致させるのか、そのプロセス(動学経路)が分からないという批判もあります。
つまり、不均衡状態から、どうやって均衡状態に達し、そして安定するのかという経路を辿るのではなく、均衡の存在と安定性を確認(証明)してから、均衡点の上で生じている事態を調べるということについての(逆なのではという)批判です。

合理的期待形成を中心に据えた現代のマクロ経済学も批判の対象です。
市場の不確実な状況で、「期待を合理的に最大化する」などということが出来るのかということです。
合理的経済人の全知全能の目を働かせると同時に、将来予測までしなくてはならない、それはムリムリというわけです。まあ、もともと無理スジなのは承知の上なんでしょうけど...

経済学は科学なのかという批判もされました。
哲学者カール・ポパーによれば、科学理論が満たすべき基準とは、「反証による検証が出来ることである。すなわち反証可能性を持つものが科学である。」と定義しました。そして「反証不可能な命題は、科学的命題ではなく、イデオロギー的命題すなわち形而上的命題である。」としたのです。
ポパーによれば、経済学においてもこの基準を満たすべきであり、マルクス経済学などの、いわゆる歴史主義は科学的理論ではないと断じました。
しかし、均衡理論が科学的命題なのか、すなわち反証可能性を持っているのかは、大いに疑問なのです。「厳密な諸前提を設定し、後は数学的演繹で結論を導く」方法は、数学的定理であって、反証は出来ません。ポパーの主張は均衡理論にとっては、逆噴射になったということです。

科学史家トーマス・クーンによれば、科学の営みは「一定の時期における科学者集団の科学の思考の枠組み」すなわち「パラダイム」に従って行われているといいます。
ある理論の正しさを保証するものは、理論が正しいと「証明」することではなく、多数の科学者がパラダイムに従って「妥当である」と認めることにあるのです。
規定された科学の方法というものは無く、科学者が様々な手段を駆使して、理論の正しさ(検証)や間違い(反証)を証明する試みが不断に行われていて、またその妥当性を判断するのも科学者集団というのが、科学界の実際の姿ということです。

しかしクーンのより重要な概念は「パラダイムシフト」です。パラダイムが、劇的に、革命的に変わることです。その一例として、天動説と地動説が挙げられます。
天動説が支配的な時代は、科学者(天文学者)集団は、天動説理論を前提として研究を行っていました。ところが、その前提では解決できない例外的な問題が次々と登場します。科学者は新しい理論を模索し、その中で、地動説という、問題解決のために有効なものが現れます。科学者集団の中で、検証され、論争が行われ、そして地動説が支持され、支配的な理論となるのです。
つまり、天動説パラダイムから地動説パラダイムへ、シフトするのです。
したがってパラダイムシフトは、科学理論の漸次的な発展といったものではなく、全く新しい理論への「チェンジ」です。それゆえ、クーンは、これを「科学革命」とも呼んでいます。

経済学はまるでパラダイムシフト無きパラダイムに、しかも「多数の研究者が依拠している」ということだけに乗っかって動いているかのようです。曰く「古典派パラダイム」でしょうか。
いくら外部から批判されようと、何しろ均衡理論は数学的に証明された誤りようがない定理だし、また均衡が成立しない場合や、市場がうまく機能しない場合なども、ゲーム理論の応用などで、「市場の失敗」とか言えば説明可能だしい~。
ますます変貌する経済社会の課題や問題も、お望みならモデル作って説明できますう~。 
どうやらパラダイムシフトは期待できないようです。
それに、ミクロ経済学は均衡理論に代わるものがない以上、シフトのしようもないし、マクロ経済学は、なまじ合理的期待形成という仮定を取り入れたがため、ミクロと一連托生の運命(さだめ)です。

アダムスミスからの古典派、ワルラスに続く新古典派(ネオクラシカル)、そして合理的期待形成の新しい古典派(ニュ―クラシカル)と、「古典派パラダイム」は、バージョンアップ?しつつ、続くのです。
この完璧さは既に科学の領域を超えています。
そういえば経済学は科学であるかなんて論議は、昨今あまり無いのでは?
高度な応用数学へと飛躍した今、科学のお墨付きも、もう要らないのかも...

振り返れば、経済学は常にその時の社会経済状況に深く関わってきました。
ケインズは1920年代に起きた大恐慌への対策として、利子率の切り下げ(金融政策)と社会基盤等への政府投資(財政政策)が必要と考えました。ケインズ理論を基盤にした政策は大戦後も続き、1960年代までは米国、欧州、そして日本においても、政府の基本政策だったのです。

1973年のオイルショックにより、世界の高度成長に急ブレーキがかかると、巨額の財政赤字が政府の肩にのしかかった結果、大きくなりすぎた政府から一転、「小さな政府」が社会的要請となりました。ケインズ経済学は政府肥大化の元凶となり、80年代は合理的期待形成学派を筆頭に、反ケインズ主義が経済学を席巻することとなったのです。そして英国のサッチャー、そして米国のレーガン政権が登場し、ともに大胆な市場主義改革を先導したのです。その後も90年代のグロ-バリゼーションと相まって、市場主義が世界の潮流となりました。
市場主義経済学が確たる主流となり、それは現在も、古典派パラダイムとして続いています。
これらの意味するところは、経済学は時代文脈に深く依拠してきたこと、そしてその理論が正しいかどうかは別として、少なくとも国家政策の拠りどころとはなってきたということです。

しかし、二十一世紀に入って、世界の状況は大きく変わっています。国際秩序は揺れ、反グローバル化が潮流となり、そして先進国はもとより、途上国の経済成長もブレーキがかかり、格差は拡大し、ついには資本主義の危機が声高に叫ばれるようになっています。
国家の経済政策は、金融政策はゼロ金利なんてことになっても経済は動かず、財政政策も功を奏せず、赤字は増すばかり、そして規制撤廃(緩和)という名の市場拡大策も、新奇なビジネスモデルが輩出するけれども力不足と、八方手づまりの状態です。
こんな状況でも、経済学からの反応は鈍いようです。あまたの批判や論議をものともせず?生き抜いてきた経済学ですが、時代の文脈に適応せず、現状分析も政策への寄与も、ままならないとなれば、さすがにその将来も?...

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