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鹿の子百合

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鹿の背中の斑点模様を「鹿(か)の子まだら」、略して鹿の子といいます。
昔から、この斑点模様が付いたものを、「・・鹿の子」と呼んできました。
在原業平の「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらん」という歌があります。

布の染めを「鹿の子しぼり」といったり、また植物の「京鹿の子」は、ごく小さな花を密集させて咲く形が、鹿の子模様に見立てられたのでしょう。
和菓子の「京鹿の子」は、餅のまわりを、蜜で鹿の子模様に仕上げた豆で囲んだ菓子です。

でも信州小布施の有名な菓子、「栗鹿の子」は大粒の栗の実に栗あんを練り合わせて作った、きんとんとほぼ同じもので、鹿の子模様はないのですが、栗鹿の子と呼んでいます。

画像の「鹿の子百合」は、花弁に鹿の子模様の斑点があることから、そう呼ばれます。
日本原産のユリで、かのシーボルトによってヨーロッパに持ち込まれ、交配種が作られました。
花はやや下向きに、また大きく反り返って咲きます。
色は濃い紅色からピンク色をしていますが、画像のユリは変種の園芸種です。
花弁も斑点も真っ白の鹿の子百合です。

進化と進歩はどう違う?

「進歩」という言葉の代わりに、「進化」が使われるのが普通になっているようです。
「進化」には「進歩」の意味を持つと同時に、環境や時代に適応したというような価値判断があるからでしょうか。より高度に、複雑に、なんていうことまで含意しているような?
でも本来、「進化」は生物学で使われる用語で、「変化」の意味であって、「進む」というような方向性はありません。英語evolutionを日本語に翻訳するときに、進化という語が作られて、「進む」という意味合いを持ってしまったのですね。
英語では進歩はprogressとかadvance、進化はevolutionで、紛らわしくはありません。

ところが、evolutionは生物学の用語であると同時に、日常語としても、展開、発展、進展、といった意味で使われています。
また生物学用語としても変化していて、初めは生物学の一部門である発生学で、evolutionは 「受精卵から展開して成体が作られること」を意味しています。
発生学とは「胚の発生を研究する学問」です。「胚」とは動物では誕生や孵化の前の段階をいい、植物では発芽の段階にある全ての組織のことです。

さらにその後、生物学では個体の発生と生物の進化との類似性が注目され、「進化はある一定の方向に発展する」と考えられました。
それを表すのに適切な語として、evolution を使うようになったのです。つまり当初(ダーウィン以前)の進化論では、evolutionは発展という意味を持っていたのです。

しかしダーウィンは著書「種の起原」では、初版ではevolution という語は使っていませんでした。
進化を指す言葉としては、「descent with modification(変化を伴なう系統)」を使ったのです。
ダーウィンは自己の進化論が、発展理論に基づく以前の進化論と異なることを明確にするために、evolution の語を使わなかったのです。後になって結局使ったのですが...
ダーウィンは、進化の要因として「個体変異の遺伝と自然淘汰」を考え、生物の進化は偶然が作用する現象と考えました。彼は生物の進化が、「単純な生物から複雑な生物へと変化するという方向性」を持っているとは考えなかったのです。つまり、ダーウィンによれば、evolution は生物の進化を指す用語としては(少なくとも初めは)、適切ではなかったといえます。

ということで、もともと evolutionが進歩、発展といった方向性を持つ意味を含んでいたわけで、日本でこの語を訳するに当たって、進化という言葉を作ったのは、あながち間違いではなかったのかもしれないし、今日に至って進歩に取って代わったのも、必然の成り行きなのかもしれません。
英米でevolution が progress とかadvance に代わって使われることが多くなっているのか、興味あるところです。

とはいっても生物学では、進化を進歩と同一視するのは、やはりまずいのです。
生物進化が進歩に見えたとしても、また逆に退歩に見えたとしても、どちらにせよダーウィンから始まって、現代の進化学説にi至るまで、何らかの方向性を持ってはいないのです。
でも進化の語が全く日常語になってしまった以上は、進化を使うのはやめて、例えば変成とか変異とかいった言葉を使ったほうが良いのかも知れません。あ、これらは生物学ですでに使われています。ダーウィンが当初使った「descent with modification(変化を伴なう系統)」に戻る?

付け足しになっちゃいましたが、進化とは、ごく簡単にいって「生物が世代を経る中で、その遺伝的形質が変化していく現象」というようなことです。
そして「変異や自然適応、種の分化といった進化のメカニズムによって、ヒトも含めた地球上のすべての生物が生まれてきたことを説明する諸理論の集合」が、現在の進化論、もしくは進化学説です。

遺伝子と分子生物学 ⇒ http://kurotsugumi.blog.so-net.ne.jp/2014-03-14

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AIで経済を解明できる?

「グローバリゼーションがもたらす自由貿易は良いこと」の経済学的根拠となっているのは一つは、リカードという昔の経済学者が唱えた「比較優位」説です。
2つの国A、B国が、それぞれ1、2の2種の製品を生産していたとします。
A国では2より1の生産が効率的で、B国では1より2の生産が効率的であった場合、たとえA国が1、2のどちらも、B国より効率的であったとしても、A国は1の生産に特化し、B国では2の生産に特化し、それぞれを貿易により交換したほうが、両方の国ともに多くの製品を生産できるという、まさしく自由貿易のバイブルのような数学計算です。
経済理論の中でも、特にシンプルかつエレガント?な理論で、かつそのもたらすところが、互恵的で、WIN-WINであるため、今日に至るまで経済学者のお気に入りなものでもあります。
でもまあ、こんなたとえ話みたいな説に、そんなにうまく行く話はないぞ、と疑うのが客観的で科学的な態度ではないかと思います。

ではもう一つ、「完全競争市場では消費者にとっての効用と供給者にとっての利益が最大になるような価格・量で均衡する」という均衡理論に基づいて、「自由競争市場の拡大は良いこと」という理屈はどうでしょうか。
このいわゆる均衡理論は、経済学を学ばなくとも、どこかで見たことがある人も多いかもしれない「需給曲線」てやつで簡単に表せます。
横軸が価格、縦軸が数量のグラフに需要の性向と、供給の性向をプロットすると、需要曲線が右肩下がり、供給曲線が右肩上がりになって、両者が交差する点が、需給が一致してかつ適切な資源配分がなされるというやつですね。
でもこれもぶっちゃけ、比較優位説と同じようなたとえ話の類、といっては怒られるだろうけど...
余談ですが、こんな図程度でお茶を濁しとけば?良かったのに、もう少し客観性をつけたい、数学的に正しさを深めたいなんて考えて、物理学者や数学者が精緻で難解な数学にまとめ上げて、常人には理解不能の不動の理論を築き上げてしまったのが現代の経済学というわけです。

実際のところ、自由競争もグローバリゼーションも果たして良い事か、うまく機能しているのか、五里霧中で、そう思い込んでいるだけかもしれないのです。
とはいっても、そんな中で経済社会では日々、経済状況を分析し、評価し、予測して活動が行われています。そして経済活動はすべてが「量」とその増減の「率」に還元されるので、その数値や指標のデータは山ほどあります。
しかしそのすべてを人間が把握し理解し分析することは不可能ですから、必要と思われ、かつ信頼できそうなデータを選択して、それに過去の経験や勘による調整を加えて分析をまとめ上げる訳です。従って取り扱うデータが少なすぎたり、間違ったり、偏り、あるいは予断など、結論を誤らせる理由には事欠きません。

ということで「AI」、人工知能の登場です。最近の急速に進歩した「AI]は、これらのビッグデータ、過去にさかのぼって蓄積された膨大なデータの解析にはうってつけです。複雑な経済活動に、今まで考えられなかった関係性や法則性を見つけられるかも知れません。
例えば、円相場と株式指数との関係は、円上昇に正確に連動して株価が下がる、という相関関係は見事なほどに明確に見えますが、その理由については、それなりの説明はされても、何か「風が吹けば桶屋が儲かる」式のもどかしさも...
しかし「AI]に学習させてみたら、この相関は擬似相関、つまり「関係のない2つの事柄に、あたかも因果関係があるように見える」であって、実は隠れていた因数があって、この因数によって円と株価が動いていたなんてことも? 人間には思いもつかなかった発見があるやも知れません。
経済現象には「隔靴掻痒」(靴の上から足のかゆいところを掻く)といいたい説明が山ほどあるので、対象には事欠きません。

因みに株式の取引には、すでに「AI」が導入されているといわれます。しかし自動取引や超高速取引が、果たして「AI」に値するのかどうかは甚だ疑問です。特に超高速取引なんて、コンピューターの計算の速さだけを生かしたアヤシイ使い方で、いつ禁止されてもおかしくありません。
株式取引をはじめとした金融市場は、コンピューターの活用が最もなされている分野ですが、「AI]については??でしょう。

話がずれましたが、ここでいう「AI]の活用は、こんな狭い商売の話ではなく、また株価と円相場の関係なんてことに留まらない、広く経済活動についての学習と解析です。
グローバリゼーションや自由貿易が、実際にどういう結果をもたらしているかを解析するのも可能な話で、思わぬ結論を見出すかも知れないのです。
もしかすると、比較優位説も、均衡理論も、初めてその正しさが解明されたなんて...

樹木の水の吸い上げ

今年は梅雨入りがはっきりしないで、あまり雨も降らずに暑い日が続き、草花や菜園の作物どころか、木々までげんなりしていました。これは全体に水遣りをしなければと思っていた矢先に大雨が降って、そのあとも雨模様で、まるで今が梅雨かと見紛う日々です。

ところで植物、特に高い樹木の「水を吸い上げる仕組み」はどうなっているのでしょうか。
大気圧による水の上昇は10mが限度ですが、10mを超える木は、ざらというより普通の存在ですから、他の力によって吸い上げられているのですね。
まず水の吸い上げの始まりは「根」です。地中の水分を根が「浸透圧」によって内部に運び、そして上に押し上げます。これを「根圧」といいます。
吸い上げた水の出口は「葉」です。葉から大気中に水が蒸散すると、葉内部の細胞液の濃度が上昇し、細胞外部との間に「浸透圧」が生じ、水を吸い上げようとします。これは「蒸散力」です。

根と葉の間が幹(と枝)です。幹の内部は無数の細い細い導管が、幹の下から上まで通っています。導管内の水は「水素結合」という強い結合力によって、1本の糸のようにつながっています。
葉の蒸散力が、この水の糸を引っ張り、根の根圧が水を押し上げ、水が吸い上げられるのです。
蒸散力と根圧と水素結合によって、100mを超える樹木でも、水を吸い上げてしまいます。

ところで樹木を伐るのは、葉が落ち、そして水分が根まで下がって重さが減った冬に伐るのが一般的です。伐採がちょっと遅れて、春先に伐ると思わぬことが起きます。
杉をチェーンソーで伐ったときは、飛び散る木屑と共に樹液が、まるで血のように飛び散り、たじろぎました。また白樺を伐ったときは、切り株からどんどんと樹液があふれ出て、これまたびっくりでした。

針葉樹の杉は、蒸散力と根圧と水素結合とによって、活発に水を吸い上げる状態だったということ、また落葉樹の白樺は、まだ葉が出ていない状態なので、蒸散力が働いたとは考え難く、根圧だけによって樹液があふれ出たということなのでしょうか。恐るべし、植物の力です。

いづれがアヤメかカキツバタ

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「いずれがアヤメかカキツバタ」といって、秀でたもの二者の、甲乙付けがたいことを意味しますが、実はここに、ハナショウブが加わります。いずれもアヤメ科アヤメ属の花たちの三つ巴?です。
ただでさえ、見分けがつかないのに、さらにややこしいのは、漢字で書くと、カキツバタは「杜若」、アヤメは「菖蒲」、そしてハナショウブは「花菖蒲」となります。
杜若(とじゃく)と、菖蒲(しょうぶ)というまったく別の植物の漢字を誤用してしまったのですね。
ですから漢字は使わず、かなで書くのが間違いないのです。

で、簡単な見分け方は、花の基の部分が白い三角のがカキツバタ、黄色い三角のがハナショウブ、綾目模様がアヤメです。
もう一つ、水の中で咲くのがカキツバタ、乾いた地面を好むのがアヤメで、その中間がハナショウブです。上の画像で左から順に、カキツバタ、ハナショウブ、アヤメです。
どの花も好きですが、あえて言えばハナショウブです。
カキツバタは紫と白のコントラストが「凛々し過ぎ」、またあやめは綾目模様が「うるさい」、ハナショウブの紫と黄色の組み合わせが「ちょっと色っぽい」と勝手に思っています。

伊勢物語に在原業平が、カキツバタを句の頭に読み込んだ歌があります。
 ら衣 つつなれにし ましあれば るばる来ぬる びをしぞ思ふ


低成長経済と広がる格差2

イノベーションが、どんどん起こり、マネーが世界から集まり、人口も増加している米国においても、経済成長率が3%に達しないということは、理由ははっきりとは解らないものの、どうやら先進国では低成長が常態ということなのかもしれません。
第二次世界大戦後、抜きん出て巨大な工業太国となった米国に牽引された高度成長時代は、1970年台には峠を越していたという見方もあります。
むしろ高度成長のほうが説明を要する事態で、成長しないということが、いわば自然状態であるとの認識に立てば、また違う世界も見えてきます。

低成長と同様に難問なのは「経済的格差、不平等の拡大」です。
これだけ大きな問題で、また多く取り上げられるにもかかわらず、なぜ拡大するのかという理由について、様々にいわれるものの、一致した見解もないようで、よく解らないというのが正直なところです。

経済的格差の要素には、賃金・収入の差、富の偏在、教育費の増大、人種差、男女差、技術の変化、技術革新、コンピュータ化、グローバル化、タックスヘイブン等々が挙げられますが、格差が拡大しているということは、これらの要素がすべて拡大しているのか、それとも、そのうちのあるものが大きな影響を及ぼしているのか定かではありません。
しかし格差の拡大は、低成長と同ように常態だ、などといって済ます訳にはいかないのですが...

競争が格差をもたらしていることは事実でしょう。競争とは優劣や順位をつけること或いは勝ちと負けを決めることです。自由経済競争は杓子定規に言えば、経済格差をつける争いということです。
産業社会の黎明期には、資本家と労働者との間の所得格差が際立ち、労働者の過酷な状況がクローズアップされました。資本主義の進展とともに生じる絶対的な格差の行きつく先として、平等な社会が実現するという共産主義も生まれました。
しかし成長の拡大自体と、特に欧州で生じた社会主義的政策と相まって、格差問題も解決できるとの自信が生まれ、実際しばらくは格差は大きな問題とはされませんでした。

しかしおそらく1970年台から格差が拡大しているようです。
70年~80年代にかけて、先進国経済が低成長になったという見方と符合するかのようです。
拡大する格差を示す例では、米国の上位10%の所得階層が国全体の所得に占める割合は50%という比較的マイルド?な例や、世界の1%の人口が50%の富を有しているというような値まで数字には事欠きません。格差は国の中で、あるいは地域の中のみならず、世界で拡大しています。
成長を求めてグローバル化した市場は世界に広がり、競争は国を超えて世界での競争になり、現代の人々はあらゆる場面で競争をしています、そして競争は激しくなる一方と思われます。競争が激しくなれば格差も大きくなるということでしょうか。

寡占や独占が格差を拡大しているという話もあります。また全世界的に成長が停滞する時代、成長という量的拡大が停滞しているなかで、大きくならないパイの分け前をめぐって、強者が分け前を独り占めするような形で格差が広がっているのかもしれません。
成長さえすれば、少しばかりの分け前は回ってくるものの、今日、それも期待できません。

格差それ自体を否定する人は少数でしょう。完全な平等社会のユートピアは無いのです。
問題は、格差がどの程度まで許されるのか、その客観的な尺度がないことです。
例えば、企業で一般の被雇用者と経営者との賃金格差が何倍ならば容認できるのでしょうか。
被雇用者1000人全員と経営者1人の賃金・報酬が同じだった場合、つまり両者の所得比が1000倍を超えるような時、許容できるのか、できないのか?
結局のところ、どれだけの人がそれを容認できるか、できないかというところにしか基準がないのが厄介です。しかしすでに容認できない程度に拡大していると、大多数が判断する段階だと思われるのですが...

格差拡大の本当の理由がわからないとしても、対処する方法があれば、暫くは何とかなります。
所得の分配の不平等さを解決する方法の一つが社会福祉政策にありますが、もはや各国は財政の悪化によって、そんな余裕はとてもという状態でしょう。
また高所得者に対する税の強化、つまり累進課税は有力な方法ですが、政治はしばしば高所得者に対する課税率の低減という、逆のことをします。またパナマ文書が明らかにしているように、多くの企業や、経営者そして政治に携わる人々の租税回避がこの方法をも無力化しています。
かくしてというか格差の拡大に対する策は尽きたということなのでしょうか...一体どうする?
   ーそのうち続くー つもりですが何時になるか...

低成長経済と拡がる格差

一般的に「経済は成長するもの、しなければならないもの」と信じられているようですが、疑問の声は少数ですが常にありました。およそ半世紀前ですが、「成長の限界」という研究レポートが大きく取り上げられたことがありました。(ローマクラブ報告)
それは資源や地球の有限性から、人口増加や環境汚染がこのまま続けば、100年以内に成長は限界に達すると警告されたもので、大きな反響を呼びました。
しかし今ではそれも杞憂だったと、多くは受け取られています。
幸い?石油をはじめとした天然資源は枯渇することなく採集され続き、人口増加はしたものの、食料資源は(少なくとも総量では)不足していないし、環境汚染もサイレントキラーなるがゆえに、人々が目を背ければ何も起こらないかのごとくです。

かくして成長の限界は、今ではあまり省みられることも無く、成長する経済の神話は続きます。
ところがどっこい、現実の経済(少なくとも先進国経済)は、ずいぶん前から低成長を続けています。一体どうしてなのでしょうか? 成長の限界の呪縛は解けたはずなのに...
経済が成長するということは、端的にはその規模が大きくなることですが、では規模が大きくなるための推進力は何なのでしょうか?
成長は、一般に労働力や設備の増加による量的拡大と、そして労働生産性や資本生産性などの向上、そして特にイノベーションによる新規の市場拡大によってなされるとされています。
イノベーション( innovation)とは、「新しく採り入れたもの」というような意味で、一般的には技術革新を指すと理解されていますが、それだけではなく、新考案、 新機軸、 新制度など社会的に大きな影響を起こすようなことという意味を持っています。またイノベーションは、概して全ての資源の生産性を向上させる効果があるということで、特に注目されるのです。

ところが、、イノベーションも含んだ生産性の向上は、実のところその正確な把握が難しいという特徴があります。生産性の値は評価基準、評価方法によって大きく影響を受け、また多くの場合、質的つまり定性的な評価を定量的評価に変換することも困難で、結局のところ、成長率の値から設備や人口の増加での量的増加を差し引いた残りが、生産性向上という言葉でくくられてしまうのです。
今日、先進国では、労働人口(および消費人口)の増加や設備などの増加による量的拡大は余り見込めないので勢い、生産性の向上、特に魔法の杖とも見えるイノベーションに過大な期待を抱きがちになりますが、これは内実をよく精査したら、成長に寄与していなかったこともあり得るという、取り扱い注意物件なのです。

イノベーションに多くの期待と力を注いでいる米国では、既存の生産体制の設備や労働力の生産性を高めるというよりも、イノベーションを目指して、新しいことに飛びつく性向が強くあります。
独創性とか個性的とか挑戦といったことに大きな価値をおく傾向に、あふれるマネーのあくなき利益の追求といった要素が結びついているのです。
特に資本は短期で効率的に利益を上げるために、グローバル化を旗印に国や地域を飛び越えて、世界中の金融市場や株式市場で、マネーがマネーを求めて跳梁します。
そして「IT革命」というような、ビッグイノベーションの名のもとに、新しいアイデアで巨額の投資を集め、一気に市場を支配し、短期で巨額の利益を生むという手法が今日のはやりです。

かくして国内の産業は不法合法を問わず、移民の雇用という安易なコスト削減を目論み、多国籍企業は工場を主として事業拠点の海外移転で生産性向上を目指し、あるいは企業自体のタックスヘブンなどへの移転によって租税を逃れ、さらには鳴り物入りのイノベーションが、その担い手たる人材は海外からの人々に頼り、資本はどこのモノとも知れず、そのもたらす果実は四方に拡散し、国家や地域に残されたものは僅かだとしたら...    ー続くー

ズミの花

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高原の爽やかな風に揺れる白いズミ(酸実)の花。ズミはバラ科リンゴ属の落葉小高木です。

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カイドウ、リンゴ(バラ科リンゴ属)やナシ(バラ科ナシ属)に似ることから、ヒメカイドウ、ミヤマカイドウ、コリンゴ、小梨、などとも呼ばれます。

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牧場の刈り揃えられたズミ


太陽光発電の正しい?使い方

2012年に再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT)が施工されてから5年たちます。
その間に、再生可能エネルギー(以下再エネ発電)事業者が電力会社と交わした接続契約では、太陽光発電を中心に約7300万キロワット(KW)の発電量になるといいます。
高く設定された買取価格を前提にした再エネ発電事業者の発電コストは、諸外国と比べて2倍に高止まりしています。電力会社はこの高価格の再エネ発電を買い取り、電気料金に「賦課金」として上乗せして、そして消費者が負担します。

2017年度の「累積」賦課金は約2兆円を上回っており、このまま行くと2030年度には44兆円に上るという試算があります。また国の長期エネルギー需給見通しでは、2030年度における総発電量の2割以上を再エネ発電で賄うとして、それによる同年単年度のFIT買取補用額を約4兆円と見積もっていますが、実際はこれよりずっと多くなると試算されています。高い価格で買い取られた再エネ発電が想定より多いためです。今何とかしないと大変まずいことになる状況なのです。
しかし、再エネ発電の価格を大幅に下げれば、2割目標は達成できないし、少々の引き下げでは賦課金の負担が限界を超えます。

震災後の電力不足を早急に解決するため、再エネ発電への参入を促すべく、長期固定の買取価格を設置時ではなく、申し込み時の価格で、大盤振る舞いした結末は目に見えていました。
太陽光バブルともいうべき現象が生じ、発電設備を設置しないで高価格の買取価格を転売目的で保持する事業者もいれば、早々と安価な発電装置を大量に設置して高利益を得ている外資系事業者もあれば、徐々に下がる買取価格についていけず、撤退する事業者もありといった具合です。
しかしそれもうたかたの夢。今後はFIT価格の低下、あるいは廃止、そして送電分離によるコスト負担等々、逆風の時代です。

で、事業系の発電はさておいて、家庭の屋根に乗っている10KW未満の住宅用太陽光発電についてです。もともと営利狙いではなく、エコだからという理由で設置したと考えれば、今までの売電収入はちょっとしたご褒美と考え、将来は全量自家消費を考えるべきでしょう。もとより住宅用発電は余剰電力を売る仕組みなのですから。ただ、その最大の難点は太陽光発電の不安定性です。
光がないと発電できない仕組みは永遠に解決できません。

自家消費する際、この問題に対処する方法は、せいぜい日中の太陽光が出ているときに合わせて集中的に電気を使うといった、お天気次第の甚だ不便かつ非現実的な方法しかありませんでした。
しかし電気をためる装置、蓄電池が最近何とか使えるモノになってきました。これを使えば、一日平均して電気を使うことができます。
例えば4kwの発電パネルで5時間発電すると発電量20KWhで、大体一般家庭の一日の使用量になります。20KWを蓄電池に充電すれば、実用上十分使えるという訳です。
但し現在のところ、蓄電池は大変高価で、容量20KW程度の蓄電池は数百万円!もします。
したがって今はあまり現実的ではないのですが、将来的に安くなり、かつ売電価格が順調?に低下すれば、有力な選択肢となります。同時に本来のエコなエネルギー利用が出来ることになるのです。

電力会社の連携

エジソンとテスラによる電力の送電戦争を経て、交流送電が定着し、現在世界中の送電はほとんど交流になりましたが、同じ交流といっても国や地域で違いがあって、この違いを超えて送電を行おうとすると、厄介な問題が生じます。主な違いは周波数と位相と電圧です。
周波数は50Hzと60Hzの違い、位相は交流の周期運動において、ある時点で周期のどの位置にあるかの違い、そして電圧は50万Vとか25万Vなどの違いです。これらを同一にしないと、電力を別の電力(ネットワーク)に送ることはできません。
この中で一番問題なのは周波数の違いで、2つの周波数の電力を合わせようとすると、片方の周波数を変えて同じにする必要があります。これは片方の周波数の交流をいったん直流に変換してまた交流に変換するという大変面倒で大掛かりな設備が必要です。
日本では大まかにいって、東日本が50Hz、西日本が60Hzですから、両者間の電力のやり取りは、この困難さから実質的にはほとんど無い状態です。
ただし、同じ周波数であっても電力ネットワーク間の電力のやり取りは、あまり行われていません。
日本の電力は主に10の電力事業者が、地域を分けてそれぞれのエリア内の電力ネットワークによって電力を独占的に供給していて、事業者間の乗り入れは原則として無い状態が長く続いてきました。しかしそれも大きく変わりつつあります。

今月に関西電力は中部電力、北陸電力との送配電部門の連携を発表しました。
3社は富山県や愛知県などで他社と混在する送電線を整理し、送電を他社に委託するなどの効率化を検討するということです。例えば関西電力は富山県など供給エリア外に水力発電所を持っていて、その送電線は他社と重なっていますが、発電所から北陸電力など他社の送電線につないで関電エリアに電力を送るなどをします。
またエリアを越えた需給調整でも協力します。電力の送配電部門は、エリア内で変動する電力需要に合わせて数分単位で発電量を調整していますが、他社と調整用の電力を融通しあい、将来的には3社全体で最適化を目指すということです。

3社が連携するに至った背景には、電力は今まで地域独占企業でしたが、再生エネルギーやガス会社など新電力が伸びて、競争相手となっていること、またそれらが電力会社の送配電線に乗り入れていることなどがあります。
そして、政府が進めている電力システム改革も大きな要因です。大手電力は2020年までに発電部門と送配電部門を別会社にする、「発送電分離」を行わなければなりません。
送配電部門が担う電気の託送料金は現在、原価に利益を上乗せしているのが、今後は競争が持ち込まれる可能性があります。まだ詳細はわからないものの、既存電力会社にとっては逆風になる可能性が非常に高いのです。これらのことから、電力会社は今後も経営の合理化などによって競争力を高めていくことが、生き残りの大事な要件となっているのです。

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