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仮想通貨って何?

最近脚光を浴びている仮想通貨とは、いったい何なのでしょうか?
「デジタル通貨の一種で、開発者によって発行され、通常は管理され、特定の仮想コミュニティのメンバー間で使用され、受け入れられているもの」ーWikipediaーです...
日本語では仮想通貨ですが、英語圏ではcrypto currency(暗号通貨)もしくはデジタル通貨と呼ぶのが一般的のようです。
そもそも仮想とは仮に想定するということで、英語のvirtualが、実質上の、事実上のといった意味とは大分違います。仮想通貨は、円やドルなどの物理的通貨ではなく、また実質上の通貨にはなっていないし、あくまでもネット上での仮の通貨ですから、日本語では仮想通貨と呼び、英語ではcryptoないしはdigital currencyと呼ばれるのも一理あるのかも...

ところで通貨ないし貨幣とは何でしょうか? 簡単にいうと、「商品交換において、価値尺度、交換手段、価値貯蔵の三つの機能を持つもの」です。
価値尺度によって、異なるモノの価値を、同一の貨幣において比較ないし計算でき、モノと貨幣を相互に交換することで、物々交換をしないで取引ができ、そして貨幣を貯蔵することで、モノを直接所有することなく、モノと同価値を貯蔵できるのです。

かっては通貨は金貨や銀貨など、実体と実質価値を有するモノでしたが、18~19世紀には実際に金貨や銀貨を交換せずに、交換を保証する兌換紙幣に代わり、そして、1970年代に兌換も廃止され、現在のただの印刷された紙に至りました。現在のドルや円は貨幣の機能を、国家の信用による保証を、唯一の基礎としていて、また各国中央銀行による通貨量の調整によって、価値の安定化を行っています。(管理通貨制度)

さて仮想通貨の始まりはネット上で、国や金融機関などに干渉されずに、送金人から受取人に直接に送金をしたいと考えたことにあるといわれています。
現在使われているネット送金は、国家(中央銀行)の発行する貨幣を銀行口座に入金し、銀行が相手の口座に送金することであって、また電子マネーも、貨幣と仲介者とつながるプロセスが必要で、その間の限定的な通貨です。
仮想通貨はそういった国や金融機関を信用しない、それらから独立したい、自由になりたい、というところから始まっているのです。「信用ではなく、暗号化された証明に基づく電子取引」によってその実現を図ろうとしたのです。それは可能なことでしょうか?

国や金融機関などと関わらない通貨の好例に、ネットワークの「ゲーム」があげられます。
RPG(ロールプレーイングゲーム)やSIM(シミュレーションゲーム)では、ゲームの中でアイテムの購入や交換に、お金のやり取りが間々あります。そしてゲーム内でのお金は、ゲーム内でのみ使われ、現実の貨幣との交換はできません。
しかし、そう決めても、ゲームの外で、現実世界で、実物貨幣と交換する裏取引によってゲームを有利に進めようとする八百長が起こり得ます。
そういう行為には、そのゲームからの追放といった措置が必要になり、そのためにはルールの作成と、ゲーム参加者がそれを共同で支えることが必要です。
こうやって、ゲームの閉じたコミュニティ空間において、通貨の信用が保持されます。

しかし、仮想通貨は「信用ではなく、暗号化された証明に」によって、通貨としての機能を持ちうると考えられています。
どうやら通貨としての機能についての考察が、おざなりにされているようです。
仮想通貨が現実の通貨と関わりを持たずに、ネット空間の中で完結しない限り、証明は信用を置き換えられません。つまり仮想通貨が貨幣機能を持つためには、信用を保証する何らかの存在、例えば中立的で非営利の民間団体などによ統治(ガバナンス)が必要です。

では何故、そんな危うい仮想通貨がこんなに過熱しているのでしょうか?
それは仮想通貨が、通貨機能ではなく、投機対象として扱われているからです。
スタートアップ企業が新たな事業モデルを発表し、投資家から資金調達する手法に、IPO(Initial Public Offering)、日本語で新規公開株があります。
IPOは上場する前に株を手に入れて、上場日に売ることで利益を得る方法です。
IPOに対して、ICO(Initial Coin Offering)、新規仮想通貨公開と呼ばれる資金調達が増えています。ICOは、起業家が自ら提供する新しいサービスで使える「トークン」を販売し、投資家はトークン購入には現金でなく、仮想通貨が用いられます。
購入したトークンが取引所に上場されると、トークンを売却することで利益を出すことができます。トークンを利用したいということで買う人はいません。
売却益を得ることが目標だからです。

どちらも同じような資金調達の方法の様ですが、ICOはIPOよりも、ずっと投機的です。
株式公開は厳重な審査と証券会社の仲介によってなされますが、ICOは特にルールも規制もなく、また詐欺的なものも多いのです。「肩叩き券」みたいなものでも、「火星の土地分譲」でも、それを買う人がいれば成立します。上場後に高い値が付くだろうという期待だけで出資されるのです。
しかもそんなトークンをビットコインなどの仮想通貨で出資させ、高値で現金化して、巨額の資金を労せずして手にするのです。
しかし、ダメなICOは、やがて破綻します。その前に高値で売り逃げなくてはなりません。後に購入する人ほど利益が少ないどころか、丸損する可能性が高くなります。
なにやらねずみ講などのマルチ商法を彷彿とさせます。

仮想通貨やICOを礼賛する人々は、それらの自由な売買によって、適正な価格が自ずと決められ、通貨としての信用(証明?)を持つとでも考えているのでしょうか?
当初の仮想通貨が目指した、国や金融などの機関の統御から、自由になりたいという精神もいまや、法や課税やあらゆるルールから自由に、好きなように金儲けしたいという様に、変貌してしまったようです。
仮想通貨やICOのバブル狂想曲は、すでに最終章のメロディーを奏でています。
宴の後に、残るものは何か?信用を保証された確かな仮想通貨が出てくるのか?いまだ未知の世界です。

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安曇野の春

azmino2.jpg
安曇野の田植え前の水を張った田に映る北アルプスです。
安曇野は、長野県松本盆地の北部に位置し、北アルプスの山々から流れる梓川や中房川、高瀬川などによってできた複合扇状地です。
北アルプスに沿って南北に広がる田園風景が見事です。
地表の水の多くは伏流水となって地下に浸透してしまうため、堰(用水路)を作って灌漑し、農業を行っています。
松本周辺では田はあまり見られず、畑でスイカなどが栽培されていますが、北上して安曇野あたりまで来ると稲作が盛んで、画像のような風景が広がります。
また清澄な伏流水を使った、わさび栽培やサーモン養殖なども盛んです。

因みに北アルプス槍ヶ岳を源流とする梓川は、松本市で奈良井川と合流し、犀(さい)川となります。犀川は安曇野を流れ、高瀬川などが合流し、そして長野市で秩父山地の甲武信(こぶし)岳を源流とする千曲川と合流して、名称は千曲川になります。
千曲川は新潟県に入り信濃川となり、日本海に注ぎます。
千曲川と信濃川を合わせて日本最長の河川になります。信濃川より千曲川のほうが長いのですが、河川法上、信濃川(本流)とされます。

また千曲川が犀川と合流する地点から上流で比較すると、千曲川よりも犀川および上流の梓川のほうが長いのです。つまり梓川ー犀川ー千曲川ー信濃川が一番長いのですが...
まあ、どちらにしても最長であることに変わりがあるじゃあなし、千曲川も歴史ある川なので別にいいか...島崎藤村の「千曲川旅情の歌」は、詩情あふれる詩です。

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森の樹は伐り時

林野庁の調査では日本の森林面積は、1966年から2012年まで2500万ha(ヘクタール)強で、ほぼ一定ということです。ところが森林蓄積、すなわち森林の体積で見ると同期間に、19億㎥から49億㎥と、2.6倍になっています。つまり樹木がより太く、高く、そして数多く育っているということです。この急速な回復の主役は杉や檜の人工林です。

人工林蓄積は1966年では5.6億㎥で、全体の29%だったのが、2012年では30億㎥と、実に5倍に増加し、全体の61%を占めるようになりました。
面積は1000万haと30%増え、逆に天然林他の面積は15%減っています。
従って人工林のhaあたりの蓄積量は、30億㎥/1000万ha=300㎥になり、これは天然林他の2.4倍の蓄積量となります。なおhaは10,000㎡ですから100m四方の面積に当たります。
もともと成長の早い杉や檜ですが、それにしても、いかに急速に成長したかということを、端的に物語る蓄積量です。
ということで日本の森林は、歴史上の何回かの大量の森林収奪の時代を乗り越え、現在の森林面積は国土の7割近くを維持し、また体積も大きく増加し、森の国は安泰か?しかし..

森林は保水、土砂の保全、生態系・環境の維持、二酸化炭素吸収等々、必要欠くことのできない役割を担うなかで、特に杉や檜の人工林は木材資源を供給することが大きな役割です。ところが、日本は自国の森林資源を有効に使っていないのです。
森林蓄積が増え続けている理由は、生産目的で植林した木々が成長し、収穫期を迎えているにもかかわらず、使われずに置き去りにされているという事情によるのです。
30億㎥という数字は、人工林蓄積が飽和状態に達しているということを示す量なのです。

人の手が入ることを前提としていない天然林と違って、木材供給が第一の目的の人工林は伐採し、植林し、適切に管理育成してこそ、次の世代に残される持続可能な資源です。
今、伐って使わないと杉や檜の森林は老化し、劣化していきます。
劣化した森林は資源価値を失い、そして保水、土砂の保全、生態系・環境の維持、二酸化炭素吸収など多くの大事な役割も果たせなくなっていきます。
また劣化している杉は大量のスギ花粉を発生し、日本人の3人に1人が患わって今や国民病といわれるスギ花粉症をもたらしています。
森林資源を次世代に残し、地球環境を保全するために、人工林を適切に伐採、利用、植林育成し、森林資源を循環させことが必要なのです。

ではこれをどうやって収穫すればよいのでしょうか。
樹木は苗木を植えてから、伐採に適する大きさに育つまで一定の年月が必要です。
一年で全部伐採してしまうと、すぐ苗木を植えたとしても何年もの間、収穫は出来ません。
仮に生育期間を40年とすると、40年経った樹を伐ったあと、苗木を植えるということを毎年繰り返せば、常に樹齢0年から40年までの樹が揃って森林を構成することが出来ます。

単純な計算ですが日本の人工林を、毎年40分の1ずつ伐採すると、30億㎥÷40=7500㎥になります。ということは、2014年の日本の木材需要がおよそ7600万㎥ということですから、日本の木材需要をすべて国産材で賄っても、つねに30億㎥の蓄積が維持される訳です。
もちろん樹齢40年が収穫期で、また樹齢0年から40年まで平均していて、生育が毎年一定で、といったいろんな条件を、とりあえず措いといての話ですが。
また30億㎥が飽和状態であれば、もっと伐採しなければならないことになります。

ところが、実際はこの状態から大変隔たっています。林野庁が発表した2014年の木材需給に関する資料「木材需給表」によると、同年の日本の木材需要7600万㎥のうち国内生産量は2400万㎥、輸入材は5200万㎥で、国産材の割合が31%に過ぎないといいます。
生産目的で植林した木々が成長し、収穫期を迎えているにも拘わらず、使われずに置き去りにされている、つまり宝の山が放置され、不良在庫になっているのです。

樹木を植え、育て、伐採してまた植えるという作業は大変、手がかかる労働集約的な仕事で、また費用もかかります。外国からの安い木材に対して勝負出来なくなりました。
東南アジアの熱帯雨林、北米やロシアの針葉樹林等々、世界中から安い木材を輸入しています。これらの多くは天然林で、そして伐採された後の植林や育林をしない、したがって、そういうコスト負担のない安い木材ということです。
伝統的な日本建築で最良材料だった杉・檜も、機械加工の均質材や集成材、合板など使いやすく低価格な木材に対して対抗できなくなりました。

かくして世界でも稀有な森の国は、木材の殆どを輸入して、自国の森を資源として利用しなくなりました。今や日本は世界最大の木材輸入国なのです。
外国からは「自国の森林を保護して外国から木材を収奪している」などと非難されますが、実のところは、経済的に立ちゆかなくなった森林を「放置荒廃」させているという、もっと情けない実情なのです。
人の手の入らなくなった人工林は弱いのです。枯れ、倒れ、そして土が流れ、山が荒れ、環境が破壊され、ついには災害の元凶と化します。
誇るべき日本の「木の文化」は危機的状況なのです。

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森林資源の収奪

日本の森林率は7割。巨大な人口を抱えた先進国としては、稀有な「森の国」です。
しかしその実態はきわめて危うい状況にあります。
日本は木材を、その豊かな森から自給するのではなく、大部分(8割)を輸入しています。
かって資源としてもエネルギーとしても、木材が主要であった時代には、需要が供給を超えれば、容易に資源枯渇を招いた状況で、人々は必死に植林に励んで森林を再生産し、「持続可能」な生活を営んでいました。

しかしそんな時代も今は昔。木材の再生産は、現代の日本ではことさら高くつきます。
機械化が困難で人力集約型で高コスト、低効率です。
風水害などの災害リスク。そして長期間に亘る先行投資、等々の多くのハードル。
長年、日本はこれに対応してきましたが、大戦後の復興需要は、あっという間に国産から安価な輸入木材へと、切り替えてしまいました。
海外の「再生産しない原生林」は安価です。アメリカ、ロシア、オーストラリア、インドネシア等々、先進国、途上国を問わず世界中から木材を購入しています。伐採後は丸裸というのも、ほぼ共通の有様です。
これを「○○○ハイジャック」なんて過激に表現する向きもあります。
海洋資源を「獲り放題の収奪」とすれば、こちらは、「買い放題の収奪」でしょうか..
買い手のつかなくなった森林は、林業として成り立たなくなりました。
人手の入らない人工林は荒れて行きます。日本の森林の半分は人工林。
森林率7割の「森の国」は、危ない状態にあります。

日本の森林資源の大きな収奪は過去に4回起きているということです。
最初は奈良時代。壮大な都と寺院建築で畿内周辺の森林は、伐り尽くされたといいます。
中でも聖武天皇と光明皇后の、東大寺と新薬師寺の建立は、大規模な伐採を招きました。

2回目の収奪は、戦国時代末期から徳川政権樹立頃まで。
信長の安土城を皮切りに、秀吉の大阪城を始めとする大規模建築の数々。そして家康も負けじと、江戸城や名古屋城などの城郭を立てまくり、この3人の大規模建築マニアを中心に、日本中に林立した城郭等々、壮大な木材消費です。日本中の山から木材が伐り出され、日本中の山が禿山になったというのも、大げさではない由。

江戸時代は、破壊された日本中の森の修復の時代ともいえます。
植林・育林の大変な労力。苦労辛苦して培った技術。時間のかかる再生プロジェクトを支えた政治的社会的体制。そして脆弱ながらも、樹木の再生が出来た地理的環境などなどの複合的な要素で、森林は甦ったといいます。

3回目の収奪は明治時代。
維新から明治30年までの間に、産業化のために大量の木材が伐り出されました。
明治の初めは、まだ石炭を大量に使うには至っておらず、木材は主な燃料として大量に使われたのです。明治27年に出された報告(大日本山林会)では、日本の森林面積は55%で、そのうち樹木で覆われているのは30%だということです。つまり森林とはいっても、禿山の面積が半分近くの25%だということになります。
遅ればせながら、修復作業が始まって、河川法、砂防法、森林法が制定され、治水、緑化が開始され、禿山が徐々に森林に戻っていきました。

そして4回目の収奪は、太平洋戦争。またまた森は伐り倒されました。
戦争中の資源不足は悲惨で、松の根から採取した「松根油」を航空機燃料に使ったりしました。バイオ燃料のはしりは、戦争用途だった?
しかし、この大規模収奪の後も何とか乗り切りました。戦後の植林は、驚くべき勢いだったそうです。成長の早いカラマツ等を植林したものの、使い道に困ったり、杉の大量植林で花粉症の原因を起こしたりしていますが、ともかくも再生はしました。しかし、成長に時間がかかる木材は、当然のことながら、戦後の復興需要には間に合いません。
資源とエネルギーは、海外からの木材とそして化石燃料に頼ることになりました。
苦労して植林した木が、木材として使える大きさに育ったときは、安価な輸入材の天下。

かくして4回の収奪は、乗り越えることが出来たものの、現在、世界中の森林資源を買い漁るという形で、5回目の収奪が、日本の外で現在進行形です。

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桂と修学院、二つの離宮

桂と修学院、ともに京都の地名ですが、その名が広く知られているのは「桂離宮」と「修学院離宮」という名立たる離宮があるからです。(離宮とは天皇またはそれに準じる皇族が居住する御所とは別の場所に、主に別邸として建てられたものをいいます。)
桂離宮は、豊臣秀吉及び徳川家康の時代の天皇であった後陽成帝の弟君、八条宮智仁親王とその子息の智忠親王が二代にわたって、桂の地に立てた別荘です。
また修学院離宮は、後陽成帝のあとを継いだ後水尾帝が、修学院の地に建てた別荘です。

八条宮智仁親王は一時、秀吉の猶子となりましたが、秀吉に実子が生まれたため、これを廃され、次いで後陽成帝のあとを継ぐ親王に宣せられましたが、家康の反対で立ち消えになりました。権力に翻弄された智仁親王ですが、伝統的公家文化を担う文化人で、造庭の才にも恵まれ、家領の桂の地に別邸を建てました。

後水尾帝は後陽成天皇の第三子で、八条宮智仁親王の甥に当たります。親王に代わって後陽成帝のあとを継いだのですが、幕府による「禁中並公家諸法度」の制定や、家康の孫娘の「和子 まさこ」の帝への入内の強制など、朝廷への強い圧力にさらされました。
政治への関わりを極端に制限された帝は、権力ではなく、美の世界での覇者たるべく、王朝文化の展開に力を注いだのです。江戸の武家文化に対抗して、後水尾帝を中心に朝廷と町衆によって京都に興隆した文化は、「寛永文化」と呼ばれます。
桂離宮と修学院離宮は、その一つの集大成でもあります。

後水尾帝は桂離宮を二度訪れ(行幸し)ています。すでに智仁親王は他界していて、智忠親王が帝を迎えるため、離宮を改修・増築し、現在の姿になりました。
智忠親王と呼ばれるのは、後水尾帝の猶子となり、親王に宣せられたからです。

また智忠親王の奥方は加賀藩前田家の息女の「富姫 ふうひめ」ですが、富姫の伯母に当たるのが、後水尾帝に嫁いだ前述の家康の孫娘の和子です。つまり後水尾帝と智忠親王の奥方同士も親戚関係にあったのです。
このように桂離宮と修学院離宮にそれぞれ関係した人々が、深く繋がっていて、また極めて似た環境に置かれていた事がわかります。その共通した特徴を挙げてみると...

▲徳川幕府の、天皇家・公家に対する政治的な圧迫は過酷なものでしたが、経済的にも冷遇しました。後水尾帝の禄高は一万石ほどで、小大名にも及ばず、また八条宮家は三千石と、幕府の町奉行程度でした。従って天皇や親王といえども本来ならば、離宮の造営など叶わない筈ですが、しかし智仁親王は秀吉によって八条宮家を創設され、桂の地が所領とされたことなどから、少なくとも秀吉の時には恵まれていたと考えられます。因みに八条宮家御殿も秀吉が建て、その襖絵として制作されたのが、狩野永徳の傑作「檜図屏風」です。
さらに智忠親王に嫁いだ富姫は加賀の前田家の息女。前田家は京の文化を広く取り入れた大名です。親王は前田家より多額の援助を受けて、桂離宮の修復、増築に努めることが出来たのです。

また後水尾帝に嫁した和子は、幕府と後水尾帝の関係修復に努め、また京都の文化興隆にも尽くしたといわれています。修学院離宮造営に要した費用の大半が、幕府の援助によるものであったのも、和子の存在によるところ大なのです。

▲秀吉、家康は、大規模建築のマニアで、権力の保持と誇示のための城や館、寺社建築のため、日本中の木を伐りまくり、主要な樹木の産地の山々を、ほとんど禿山状態にしたといわれています。
それに対して二つの離宮は別荘ということもあって、建物自体は大変控えめで、誇示するところがなく、使用した材の質こそ選び抜いて使用しているものの、量ははるかに少なく、また移築した建物も多く、ずっと資源節約的なのです。

▲離宮の敷地内に田を設け、村人に耕作させました。
八条宮も後水尾帝も、田園風景と民の農作業が離宮に欠かせない美の要素と見たのです。
特に修学院離宮は、広大な田園の中に離宮が埋もれているかのごとくです。
天皇は田畑を司ることが大事な務めなので、田はごく自然な存在なのです。

このように両離宮は、類似するところが多いのですが、相違するところもあります。
▲もっとも大きな違いは、その立地と敷地面積です。
桂離宮は京都の西郊、桂川のほとりの地に位置する敷地面積約7万㎡の別荘です。
この地は古くは平安時代に藤原道長の別荘があったといわれています。桂川の水を自然に引いて池を作り、池の周りを回遊する庭園と建築です。
修学院離宮は京都の北東、京の街を見下ろす比叡山の麓の面積約54万㎡と、桂離宮の約8倍の広さの敷地です。比叡山の斜面を削り、城壁ほどもある巨大な堰堤を築いて作った広大な池を中心にして、その先に京の都を借景として俯瞰するという、壮大な庭園です。
ここに比叡山の僧坊、修学院があったことからその名がつけられました。

▲造営の目的も微妙に違います。桂の地は古来「月の桂」と呼ばれて、月の名所として知られています。桂の名は「月には桂の木が生えている」という、中国に伝わる故事に由来しているともいわれます。八条宮は月を愛でるために、この地に別荘を建てたのです。各地の名所を写した庭、随所にちりばめられたディテールを愛でる庭園と建築です。
一方、修学院の地は、比叡山は京の都を一望する場所。
京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされました。京都の主である帝にとっては、この地に立つことは、国見ともいえることです。
後水尾帝は公家はおろか、町衆や民百姓までも離宮に招き、宴を催したということです。
桂離宮が宮家の私的空間であるのに対して、修学院離宮は帝のある種の公的空間であるという違いなのでしょう。

▲桂離宮では建物が大きな位置を占めています。
雁行型に並ぶ書院造りの建物が、離宮の中心に位置します。
修学院離宮では茶屋風の建物が点在しますが、本格的建物がありません。幕府の令により、天皇が御所を離れて他所に宿泊することを禁じたことも関係しているのかとも思われます。
しばしば離宮を訪れた帝は、しかし夜を過ごすことは叶わず、つねに日帰りだったわけです。帝が桂離宮を行幸した折も、日帰りだったということです。

かくして、桂、修学院二つの離宮に代表される寛永文化は、中世以来の伝統的文化の完成形として結実しましたが、幕藩体制の強化や大坂、江戸への経済的重心の移動に伴い、京都が政治的のみならず、経済的にも地盤沈下して行くにつれて、新しく江戸や大坂の武家や町人によって起こされた賑々しい「元禄文化」にその座を譲っていくことになります。
しかし両離宮は後水尾帝、智忠親王の後までも、見捨てられたり荒廃することなく、今日まで至高の日本庭園・建築として存在し続けます。


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金閣と銀閣、二つの寺

室町幕府三代将軍の足利義満が、京都北山に造営した山荘は、その後臨済宗の寺となり、鹿苑寺と名付けられました。その中心的建物の舎利殿が黄金色に輝いているため金閣と呼ばれ、そして寺院全体も金閣寺と呼ばれます。
それに対して八代将軍の足利義政が、東山に造営した山荘は、その後同じく臨済宗の寺となり、慈照寺と名付けられました。舎利殿に相当する観音殿が銀閣で、寺院全体が銀閣寺と呼ばれます。でもなんで銀閣?
金閣寺舎利殿の建物には金箔が貼られていて、実際に金色なのに対して、銀閣寺観音殿は銀箔が貼られていないし、木地むき出しの地味な姿なのに。

銀閣と呼ばれるのは江戸時代になってからで、1658年にその記録があるということです。
それと前後して、銀閣寺の庭に、向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる砂の造形が作られました。
この造形と銀閣の呼び名、どちらが先かはわからないようです。
向月台は高さ2メートル近くある円錐形をしていて、台というより塔形で、また銀沙灘は広大な砂の舞台で、さざなみが寄せるような文様が描かれています。
二つは最初に造られた時に比べてどんどん広がっていき、江戸の末期に現在の大きさにまで拡大したということです。
庭の砂は光を良く反射する白川砂で作られているので、月の夜に月光を美しく反射するため、銀閣と呼ばれるようになったといわれてきましたが、でも何のためにわざわざ白川砂?
もとより禅宗寺院ですから、禅の瞑想のために庭は重要で、大きくなっていったのは何となく解るような気がしますが、それなら夜に月を反射させる必要あるの?

ところで銀は光の反射率が高く、美しい金属光沢を有し、金と並ぶ貴金属ですが、金と違うところは化学反応しやすいということです。ヨーロッパなどでは権力者や富を持つ人達に食器に使われ、硫黄化合物やヒ素化合物などの毒を混入された場合に、化学変化による変色でいち早く異変を察知できる性質が利用されたということです。

江戸時代中期の有名な絵師、尾形光琳の代表作に紅白梅図があります。
二曲一双の屏風の中央に上から下まで巨大な川が流れ、川の両側には金地の背景に紅白の梅を配置した、誰もが知る傑作です。
中央の川は黒に近い地に、銀色がくすんだような色合いで流れが描かれています。
近年の調査で、川は全面に銀箔が貼られ、流れ以外の地の部分が硫黄で黒く変色されているとのことです。つまり黒地を作るため銀箔を貼ったということです。
いぶし銀は銀を硫黄で反応させて、くすんだ渋い銀にしますが、それをさらに進めて、銀の存在を消してしまうという驚くべき手法です。
この川の部分以外にも、金地が金箔ではなく、金泥で描いたとか、昔からいろいろ議論されてきました。恐るべし光琳、只者ではありません。

というようなことで、容易に変色する銀を建物の壁に使うということは考え難いのです。
銀閣寺の銀は銀そのものではなく、別のものを表しているのは確かなような。
やはり向月台と銀沙灘による光の反射なのか?

ところが、2007年から行われた修復工事で、建物に明礬(ミョウバン)が混ぜられた白土が塗られていたことが判明しました。光が当たるとキラキラと光り、あたかも銀が貼られているようだったのかもしれません。しかしこれが何時塗られたかはわかりません。
創建当初は明礬は塗られていなかったようですし、何時、塗られて何時、剥げ落ちたのかもわかりません。でも大変興味深い発見です。もっと調べてほしいですねえ。

明礬が塗り込められて月の光を反射するから銀閣なのか、向月台と銀沙灘の造形が月光を反射するから銀閣なのか、どちらにしても「月」が深く関係しています。
もともと足利義政は「月」を愛でるためこの山荘を建てたのですから...

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キツツキ(啄木鳥)

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キツツキは文字通り、木をつついて木の中の虫を食する鳥で、漢字では「啄木鳥」、
木を啄ばむ鳥と書きます。
英語では「woodpecker」でやはり木をつつく、啄ばむといった意味です。
でも日本でのキツツキ名は代表的な「アカゲラ」、「アオゲラ」、「コゲラ」や、北海道に生息するクマゲラ、沖縄のノグチゲラと、北から南まですべてゲラが付いて、キツツキが付くものはいません。何で? 
キツツキは昔「ケラツツキ」と呼ばれていたそうです。
「ケラ」は虫のことで、つまり虫ツツキということになります。
だから昔は、アカケラツツキやアオケラツツキと呼ばれていたのが短くなって、アカゲラ、アオゲラとなったということのようです。

日本の鳥は、その名称の由来が解りにくいものが大変多いのです。たとえば「ブッポウソウ」という鳥がいます。鳴き声が「仏法僧」と聞こえるので、大変ありがたい鳥とされたのですが、実は全く違う「コノハズク」という、日本で一番小さいフクロウの鳴き声だったのです。ブッポウソウは「ケエー ケエー」と鳴くのです。
キツツキは木の中の虫をつつくという大変解りやすい行動から、見事に「ゲラ」に統一されていて、例外がないようです。

上左画像がアカゲラ、右がアオゲラです。なんか逆のような気もしますが、アカゲラは腹が赤く、アオゲラは背中が青い(黄緑)ことから名付けられたのでしょう。
下画像はコゲラです。スズメをちょっと大きくした位の小さなキツツキです。
木をつつく音も可愛らしく、また啼き声は「ギー」と啼きます。一番お気に入りのキツツキです。
kogera4e.jpg

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鮭と鱒、鷹と鷲の違いなど

渓流に住む小さな川魚ヤマメと、海を回遊する大きなサクラマスは全く同じ魚なのです。
卵から孵ったヤマメの稚魚は、餌を巡って稚魚同士で熾烈な生存競争を繰り広げた結果、敗者は川を下ります。そして海を回遊して大きなサクラマスになって、生まれた川に戻ってきます。そこでオスはメスを奪い合い、勝ってようやく子孫を残すことが出来ます。
最初の敗者が最後は勝者になったのもつかの間、サクラマスはそこで死んでしまいます。
一方、川に残ったヤマメは産卵しても生き残り、翌年も産卵します。
しかもオスのヤマメは、サクラマスの産卵中に忍び込んで、なんとサクラマスの卵に自分の精子をかけ、子孫を残すなんてことを、やってのけるのです。一体どちらの生き方が良かったのかなんて?考えちゃいます。驚嘆のヤマメとサクラマス物語です。

ところで、ここでマスとサケの違いはなんだろうと疑問がわいたことありませんか?
英訳すると、サケがSalmon(サーモン)マスがTrout(トラウト)とされますが、一般的には、サーモンは海水に棲み、トラウトは淡水に棲むと分けられるようです。ただトラウトはより広く、淡水魚全体を指すこともあるようです。
日本では海水と淡水で分けるか、あるいは小さいのはマスで、大きいのはサケといった分け方もあり、ごちゃごちゃになっています。
最近ではトラウトサ-モンなんてのもあるようですが、これは商標です。

正しくは?サケというと、サケ目サケ科サケ属に含まれる魚を指します。
マスはサケ目サケ科の魚で、属にイワナ属、コクチマス属、イトウ属など沢山あります。
つまり、マスはサケと属が違うだけで、同じサケ科の魚で、広義のサケということです。
ヤマメは、サケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス種(もしくはヤマメ種)と、たいそうな肩書きになります。イワナもサケかあ...
何でこんなになっているのかというと、「サケ・マスは海水と淡水の両方で棲息できる」ということが大きな原因なのです。海や川の色々な水域で、色々な生き方が出来るので、その形や生態に応じて、名前も色々付けられたというわけです。

ついでに区別がよく解らない次のようなものも...
『鷲と鷹の違い』 英語では鷲はEagleで鷹はHawk。
「タカ目タカ科」に属する鳥のうち、比較的大きいものをワシ(Eagle)、小さめのものをタカ(Hawk)と呼び分けていますが、これも明確な区別ではありません。
なので例外があって、例えば「クマタカ」は大型の種で、大きさからはワシ類といえるし、「カンムリワシ」は小さいので、タカ類といえます。また余り好印象をもたれない「ハゲタカ」は「ハゲワシ」が正式な名前で、大きくて、死肉を食料とする鳥です。

一般に猛禽類と呼ばれる鳥は鷲・鷹の「タカ目タカ科」に加えて、「タカ目フクロウ科」のフクロウ、「タカ目ハヤブサ科」のハヤブサなど多くの種類があります。
北・南米に生息する「コンドル」はハゲワシに大変似ていますが、「タカ目コンドル科」の鳥です。ハゲワシと同様に頭部に毛が無いのは、大型動物の死体に頭を突っ込んで肉を獲るときに毛が邪魔になり、また血の付着などを防ぐためです。

『フクロウとミミズクの違い』英語ではすべてOwl で、ミミズクに当る言葉はありません。
「タカ目フクロウ科」のフクロウは、日本ではフクロウとミミズクの2種に分けられています。フクロウ科のうち、羽角(うかく)がある種の総称を、ミミズクと呼びます。
羽角は耳に見えますが、耳ではない羽飾りです。
ミミズク種は「コノハズク」のように、名前が「~ズク」で終わります。
ただし、例外もあるので厳密な区別ではありません。「アオバズク」には羽角はないのに、ズクと呼ばれ、「シマフクロウ」は羽角があるのに、ズクと呼ばれません。

夜の森のハンター、フクロウまたはミミズクは、ハイテクの装備を誇ります。
まず夜目が利き、人の何十倍も光に敏感なのです。
そしてその目も役立たない真っ暗闇では、獲物の立てる微かな音を感知して狩をします。
右耳が左耳より高い位置にあって、左右だけでなく上下方向の位置関係も把握できます。
そして音源から届く僅かな時間差と強弱差を感知すると、それぞれを2つの神経経路に分けて信号処理し、最後に合成して、獲物の位置を正確に感知するのです。
もうひとつのハイテクは羽にあります。その形状と羽の表面の細かい羽毛が、飛行の羽切音を消して、音もなく飛行します。
こうして暗視スコープと、ソナー(音波探知機)と、ステルス(隠密)性能を持って、獲物を襲うのです。

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資本主義の精神2

資本主義とは単純にいえば前回見た如く「工場や労働力などに投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて、あたかも資本が自律的に増殖するかのような経済システム」です。もう少し細かい定義をすると、例えば次のようになります。
「資本主義は、生産手段の私的所有および経済的な利潤追求行為を基礎とした経済体系である。資本主義を特徴づける中心的概念には、私的所有、資本蓄積、賃金労働、自発的交換、価格体系、競争市場などがある。
資本主義の市場経済では、投資の意思決定は金融市場や資本市場の中で所有者によって判断され、生産物の価格や配分は主に市場での競争によって決定される。」(Wikipedia)

しかし、これらの要素をすべて持ち、そして完全に機能する資本主義は、いわば理想形で、資本主義という言葉は同じでも、その中身は時間と場所によって大きく異なっています。
その名称も国家資本主義、独占資本主義、金融資本主義、ステークホルダー資本主義あるいは海賊資本主義や強欲資本主義などの蔑称を含めて多種多様で、これらを詳細な定義での資本主義の名で括れるのかは大いに疑問です。
投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて利潤や剰余価値を生み蓄積されていくという、資本主義の最も大きな特徴を端的に表すほうが良いようです。
資本主義や民主主義などの重要な概念ほど、分析的に厳密な定義にはそぐわないのです。

前回は資本主義の成立に果たしたカルバン主義というキリスト教プロテスタントの役割と、そして資本主義の進展とともに、カルバン主義の禁欲的、倫理的価値を失って、資本の増殖と蓄積が自己目的化していった経緯についてでした。
しかし一気に、そこに突き進んだというわけではありません。
カルバン主義の宗教的色彩はなくなっても、英米資本主義国の圧倒的な生産力と、それに伴う経済的侵略の脅威に対するための、他の西欧諸国による資本主義の導入には、少なからず倫理的色彩が伴っていたと思われます。
欧米以外では、唯一早期かつ自立的に資本主義化を達成した日本でも、それは明らかです。
列強の侵略に対抗しようとした当時の日本人の、外敵からの防衛意識や国家と国民の自覚と使命感といった、ある種の倫理的価値、そして日本独自の職業倫理が強く働いたはずです。

しかし、時を経て今では、およそ資本主義が根付くとは思われなかった多くの国々が、資本主義的発展を遂げています。資本主義のスタートに自前で用意しなければならなかった資本や労働力、インフラ、市場、ましてやその精神も、いまや必須ではなく、投資機会がある時間と空間さえあれば、どんな所でも資本が投入され、利潤を生むのです。
グローバリズムが進み、資本は自由に国境を越えて世界に跳梁します。
そして現在、資本が従来的意味での利潤や配当からも独立して、自己のみで膨らみ増殖していくかのような、資本主義の究極の姿ともいえるような事象を目の当たりにしています。

「ITビッグ4」と呼ばれる超巨大企業があります。ご存知、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルの4社です。頭文字をとってGAFAとも呼ばれます。(マイクロソフトを加えて、ITビッグ5と呼ばれることもあり、この5社は米国株式時価総額上位5社です。)
これらのIT巨大企業に代表される新興の急成長企業は、資本市場から金を調達して、もうけた金は投資や買収につぎ込み、ブレーク・イーブン(収支ゼロ)或いは赤字で経営し、会社をタックスヘイブンに移転して法人税を逃れ、ひたすら資本の増殖を図るという点で共通しています。もっと正確にいうと、株式の時価総額を増やすことが企業目標なのです。

限りなく実体から遊離した「仮想資本」ともいえる、時価総額の極大化モデルの企業が、たとえ消費者にとっては良いことでも、社会にとって良いことなのか、大いに疑問です。
消費者を便利にしているけれど、プライバシーの侵害や情報流出、フェイクニュースなどの問題を生んでいます。雇用を創出する一方で、雇用を破壊し、新しい産業を起こして古い産業を破壊し、競合する相手をいち早く排除して独占的地位を築き、有望なスタートアップに触手を伸ばし、富を集中して格差を拡大し...と、あげつらえばきりがなし。

ともあれ、現代は、株式の時価総額という仮想資本の増殖をひたすら目的とする、新型の資本主義が跋扈しています。このシステムを駆動するエンジンは一体何?
シリコンバレーの若者たちのアイデアや思いつきを、ビジネスモデルに仕立て、尋常ならぬ自信や執着心、成功願望、競争心や支配意欲などが凝集されてスタートアップし、そこに世界の有り余る資本が群がり集まり、巨大なキャピタルゲインを目論むのです。
限りなく増殖する強欲のデーモンに取り付かれたかのようです。

しかし今、ようやく逆風が吹き始めているようです。隆盛を極めた王国もどこか不安げ?



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資本主義の精神1

資本主義(capitalism)とは何?
蓄積された富や貨幣という意味での資本という言葉は昔からありましたが、資本主義という言葉は19世紀半ばから使われ出しました。そしてその意味は単純に言えば「工場や労働力などに投資された資本が利潤や剰余価値を生み、それがまた投資されて、あたかも資本が自律的に増殖するかのような経済システム」ということになるでしょうか。
なんか良く解からないような定義ですが、金利の複利システムを例にすると解かるかも。
複利はご存知のとおり、お金を貸し付けて、一定期間後に生じた利息を、何かに消費するのではなく、元のお金に加えて貸し付ける、利息が利息を生じるシステムです。
つまり金(資本)が自己増殖し、金(資本)が蓄積されていくということになります。

古来、貨幣は単なる交換手段として用いられ、また貸付利息は大体世界の多くで、良くないものとされ、多くの宗教もこれを禁じていたのです。単なる交換手段である貨幣が、時間と空間の差を利用して新たな貨幣を生むということは、昔は罪悪だったのです。
また資本を投入して得た利潤は、利潤に応じた消費がなされ、或いは富として蓄積はされても、資本として再投入されることはないのが常態だったのです。
では金利が罪悪と考えられ、また資本が増殖し蓄積されることがなかった時代から、資本が資本を生み、利息が利息を生む時代への大転換はどうして起こったのでしょう。

18世紀のドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、キリスト教宗教改革の指導者ジャン・カルバンから始まるカルバン主義と呼ばれるプロテスタントの役割を論じています。
カルバン主義は「人間が救われるか否かは、あらかじめ決まって(予定されて)いる。だから人間が善行を積もうが悪行を重ねようが関係がなく、また救われるかどうかを知ることも出来ない」という神の恐ろしいまでの絶対的な存在を説きます。それが何を意味するって?

そんな状況に置かれたとき人はどうする? 既に神によって決められているなら悪行をしてもOK? それともやけになって享楽に走る? しかしそんなことにはならなかったのです。
人々は、そこから逃れるために「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という、原因と結果が逆転した論理を生み出したのです。
そして人の行動において、一切の欲望や贅沢を禁じ、神が定めた職業や天職である労働に注進することに集中させました。

こうして、人々は禁欲的労働という倫理的態度を生み出しました。
信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に尽し、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができたのです。
「行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その結果として利潤を得るのであれば、その利潤は、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。」
かくして人々は、自らの生活を禁欲的なものとして、生活に計画性と組織性を取り入れ、これを徹底的に合理化したのです。
利潤は消費や浪費に使われず、資本に追加されて更なる利潤の追求に向けられたのです。

そして18世紀、英国に産業革命が起きました。生産力の格段な向上に対応する労働力や資本、消費需要などの全ての拡大、それを実行するための計画性や合理性、そして利潤の蓄積と再投資など多くのことが求められました。カルバン主義はその精神的・倫理的な骨格、すなわち資本主義の「精神」を成すことになり、ここに近代資本主義が誕生します。
カルバン主義が主に英国、オランダ、そして米国に信仰を広げていた結果、それらの国が産業革命にいち早く適合して、資本主義の先駆者となった理由はそこにあります。
このように金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、金儲けを積極的に肯定する論理と資本主義を生み出したとウェーバーは説明します。
ただしウェーバーは「経済と社会」という著作で、資本主義経済の成立には合理的国家・合理的法律も本質的な役割を果たした、と述べていて、カルバン主義だけで資本主義が成立したわけではないといっています。

しかし、この禁欲的労働の倫理は長くは続かないのです。
産業化が進展するとともに、信仰が薄れて世俗化が進み、禁欲的労働の倫理の色彩が弱まり、利潤追求自体が自己目的化する、すなわち信仰なき資本主義が浸透していくのは、いわば自然のなり行きでした。
また資本主義の導入に遅れた、カトリックを多く信仰する他の欧州諸国も、産業革命の圧倒的な生産力に対抗することを余儀なくされ、資本主義の導入を急ぎます。急速に拡大する資本需要は、もはや利潤を消費や浪費に向けることなく蓄積、再投資されていきます。
かくして内からの動機に基づくものであった利潤追求が、外圧的な動機に変貌して、利潤の追求と蓄積が自己目的化して行くのです。

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